struck symphony

“そういえば…、何もかもが 初めてなんだ…”



きごちなくテーブルに着きながら、
恵倫子の心に 改めて、緊張が走る。


同じように目の前に座る陽音を見て、
恵倫子は、不思議な感覚に襲われ、胸が、高鳴る……






「乾杯しましょう。 何に乾杯しましょうか」

陽音が、シャンパンを手に取る。


「えぇ…、そうですねぇ」


恵倫子は、
“この出逢いに” という言葉が
咄嗟に頭に浮かんだが、
キザすぎる感じがして……言えず…




「そうだ。キザすぎるかなとも思いますけど、
やはり、~この出逢いに 乾杯~ でしょうか」


「え!?あっはい」


「やはり、キザすぎますねっ。
違う言葉にしますか。 …何にしよう…」


「あっいいえ。
私も、
同じ言葉を考えてましたから…
びっくりしてしまって…」


「そうですか。それは凄いっ。
じゃあ、同じ想いだったということで、
それでいきましょう」


「はい」



“同じ想い… あぁ…なんて…
香大さんは、
私をときめかせるのでしょう…”


恵倫子は、夢心地に浸った…





「よしっ」

立ち上がる陽音に、
シャンパンのコルクを開けるのだとわかる。



ー ポンッ! ー



勢いのあるいい音が、鳴り響いた。

そして、
リズミカルに グラスへと注がれる。




“なんて…いい音…”




コルク音…

注がれるシャンパンの音…



これ程までに
快感に感じたことがあっただろうか…






陽音が シャンパングラスを持ち、
恵倫子も 手に取る。


ボール部分を持つ陽音の指に、
国際感覚を感じる。


恵倫子も そっと真似た。


お互いにグラスを近付けながら、
自然と見つめ合う。



『この出逢いに、乾杯』



陽音の声に合わせるように 恵倫子も囁いた。

そして、ひと口。





“やっぱり……キザすぎる事はないわ…


ピアニスト…香大陽音さんと…
私は今、会食してる…


改めて考えると… …凄い事…


…凄い… 出逢いだ… ”





この、 奇跡のような感動を
じっくりと味わうように
恵倫子は、
ゆっくりと 喉の奥へと流し込んだ。



ひんやりと伝う感動は、
恵倫子の五感の 奥深くを 刺激した。






「いただきます」

「どうぞ」



目の前に並ぶ料理は、
手の込んだ華麗な品々で、
食べてしまうのが勿体ないほど。




“こんなあり得ない事、忘れたくない…


…覚えておこう…”





恵倫子は、
言葉にならない想いで、
食べてしまう前に、
今一度、想いを噛みしめるように 料理を眺めた。





香大陽音というピアニストを知り、
その人が奏でる音に惚れ、憧れ、
その人自身に惚れ、


ずっとピアノを聴いてきた…


ずっと観てきた その人が、
今、
目の前にいる。



しかも、
手料理をもてなしてくれている。



“こんな… …奇跡”



恵倫子の心に、
陽音への いつもの感情が、込み上げる。



いいえ…


本人を目の前に、いつも以上 ……




加速するように込み上げる…

陽音への感情を感じながら、


恵倫子は、
心を抑え、静かにフォークを手に取り
パスタを ひと口、口へと運んだ。



「美味しい!…」


美味しすぎて、思わず 感嘆が大きくなる。


「良かった」

陽音が、優しく微笑む。




恵倫子は、
安堵したような 優しい表情の陽音を
夢心地に見つめながら、
美味しさを じっくりと噛みしめ…



そして…





その感動とともに、思わず 涙が出た…





「どうしたのですかっ」


驚く陽音に、
恵倫子は、涙目ながら 微笑んで言った。



「嬉しいんです…」



陽音は、そっとハンカチを 恵倫子に差し出した。



「… すみません…」



恵倫子は、ハンカチを受け取り、涙を拭う。






「香大さん…」

「はい」


「感謝してます…
私… 忘れません…


…憧れて ずっと聴いてきた…
弾く姿を ずっと観てきた…
香大さんと 出逢えたなんて…


夢のようです



傘を翳してくださったり

雨から守るように
貴重な プライベートな自宅にまで
連れて来てくださり

お風呂なども…

私達に気遣いをしてくださったこと…


そして、
香大さんの手料理までも 一緒にいただけて……



…忘れられない…



本当に………大切な想い出です…





…、
…香大さんは…

ファンの方々から
何度も言われてきた言葉でしょうけどね、




…香大さんのピアノに出会ってから…
私たち親子の楽しみが、増えました…




キラキラした音…

優しさに溢れた香大さんのピアノに惹かれ、
香大さんの 人柄に惹かれ…



…私… 香大さんの奏でる音が、 大好きで…」





恵倫子は、涙が止まらなくなった。





「自分に… こんな貴重な体験が訪れるなんて…

…思ってもなかったから…
ほんと…夢のようで……



…笑顔で会食したいのに… …ごめんなさい…」




陽音は、恵倫子を見守るような
優しい眼差しと微笑みで 首を振る。


そして、


恵倫子から嬉しい言葉が聞けた陽音は、
恵倫子に御返ししたい気持ちになり、


夢なんかにしたくない…

これだけで想い出になんか……

という気持ちになり…



静かに、口を開いた。



「恵倫子さんと同じですよ、僕も。

何度も言われてきたとしても、別の人間。

今、恵倫子さんが僕に言ってくれた言葉は、
恵倫子さんからだけの、僕に対する貴重な想い。

凄く嬉しいし、
僕も 恵倫子さんと同じ気持ちです」



「香大さん…」


「貴女は、貴女しかいない。

そんな恵倫子さんに出逢えて、
僕は、貴重な体験を貰ってる」




告げているうちに、陽音の心に
恵倫子への特別な感情が込み上げてきて、
言葉が止まらなくなりそうで、
陽音は、一旦 黙った。





“俺は…

もしかして… 恵倫子さんのことを?…”





陽音は、さっきよりも
恵倫子への想いが越えていることに
他人の奥さんに 言えるはずもない… と、
平常心を保とうとした。



恵倫子は、
陽音の言葉に 心乱されそうになる。




“私は 香大さんに憧れているから…
でも…
香大さんは…、
どうして… 私と…同じ気持ちに?……”




恵倫子は、
嬉しいながらも、
理由のわからない違和感を感じた…。…。






「恵倫子さん」

「あっはい」

「お腹がいっぱいになれば、
また気分も落ち着くかもしれません。
食べましょうか」



陽音は、自分自身にも言うように…。





「はいっ。そうですね」




恵倫子は、涙を拭って微笑み、




ふたりは、
心地良い空間を 共有し、浸っていった…







泡雫が、
ふたりのグラスを 愉快に 弾く ーーー



ーーー



愉しい時間は、
どんなに長くても あっという間で……





「ごちそうさまでした。
とっても 美味しかったです」

「それは良かったです」



陽音は、そっと微笑んで
すぐ様、淡々と
食べ終えたお皿を下げはじめる。


その切り替えに 大人だな…と感じながらも
恵倫子は、少し 寂しさを覚えた。



陽音は、敢えて そうした。


自分の胸の内や 異変に 気付かれたくなくて、
いつもどおりの自分で居たかった。



“…旦那さんのもとへと 帰っていく人…”



陽音は、何度も 自分に 言い聞かせた…





腕まくりしながら
静かに シンクに立つ陽音を見て、
食器を洗い始めるのだと 気付く。


恵倫子は、すぐ様、
腕まくりしながら 陽音に歩み寄った。



「私、洗います」

「いいんですよ。ゆっくりしててください」

「いいえ、
香大さんこそ ゆっくりしててください。

コンサートを終えたばかりで
お疲れなはずなのに、
お世話になりっばなしなので、
私にさせて下さい」


そう言って、
恵倫子は、
陽音が握っているスポンジを そっと奪った。

指と指が触れ、陽音は、ドキッとする。



笑顔のままの恵倫子に
“ドキッとしたのは自分だけ…か”…と、
戸惑いを払いながら……



「じゃあ、お願いします」

「はい」



陽音は、恵倫子に託し、
窓際のソファーへと歩み、
静かに 腰を下ろした。



ワイドな窓ガラスを通り抜けて注ぎ入る
夜の光のバリエーションが、
陽音を包み 癒す。


陽音は、少し 横になった。



ーー



程なくして、恵倫子は、食器を洗い終え、
丁寧に拭き 食器棚に仕舞うと、
シンクを綺麗に拭き上げた。


そして、
手を拭きながら ソファーの陽音へと 歩み寄る。


「香大さん、終わりま…」


横になった陽音は、目を閉じていた。


恵倫子は、小声で尋ねる。

「眠っちゃったですか~」


恵倫子の問いかけに 反応の無い、陽音。

ほんの少しの寝息だけが聴こえる。




初めて見る 陽音の寝顔…

恵倫子は、愛しい気持ちで

胸がいっぱいになった。



静かに 傍らにしゃがんで そっと見つめる…



“やっぱり… お疲れでしたよね… すみません”



愛おしく じっと見つめていると、
静まり返る部屋のなかで
恵倫子の鼓動が高鳴りだした。

今にも聴こえ… 響きそう…





突然に 陽音の携帯電話が鳴った。

恵倫子は驚き 立ち上がり、
同時に 陽音は、飛び起きた。

傍らにいる恵倫子に気付いて、
片手で謝りのジェスチャーをしながら
電話に出た。


「もしもしっ、
あっ、ごめん!あっ、まだいる?
そうなんだ!じゃあ、…」



恵倫子は、気遣って 電話中の陽音から離れる。



陽音の寝顔の余韻嫋々ながら、椅子に腰掛けた。

そして、
無意識に感じた光に誘われるように
目の前に広がる窓ガラスへと 視線を投げた。


“わぁ…”


視線の先に見えた、
夜色のなかで、
最高に綺麗な光のバリエーションを放ち注ぐ、
シンボルタワー。



“凄く綺麗…
…自宅から見えるなんて…なんて贅沢…”



恵倫子は、恍惚に見蕩れていた…


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