ただひとりの運命の人は、私の兄でした

さようなら

私がずるずると話しそびれているうちに年は明け、気がつけば2月を迎えていた。
もう進路が決まっている私や絹は別に登校してもしなくてもいいのだが、二人で良く日にちを合わせて学校で会っていた。
藤井君や本田君とも同じで、四人でだらだらと話す気楽な時間は私にとって楽しみの一つだった。

絹とは卒業式が終わったらルームシェア開始、ということになっている。
卒業式の練習が始まった日、絹がふと思い出したように私に問いかけてきた。
「引越しの準備、大体終わった?」
「えっと、それが、さぁ……」
歯切れの悪い私の返答に敏感に何かを感じ取った様で、絹はぎろりと私を睨んだ。
「ねぇ、……まさかとは思うけど、もうお兄さんに話してあるんだよね?」
「あの、それが……」
「ちょっと待ってよ!!まだ話してないの?何やってるの、あおい!!」
絹は信じられない、という風に顔を歪めて大声で叫んだ。
教室で騒ぎ出した絹に皆が注目している。私は慌てて絹に静かに、とひそひそ声で話した。
「だって、びっくりする案件だよね、これ!?どうするの?ルームシェア、本当に出来るの!?」
絹が驚くのも当然だ。
「……今日話す。大丈夫、説得するから」
「まさかのラスボスがあおいのお兄ちゃんとはね」
「うん、以前に家を出ていく話をしたら全然ダメでね。でも今回はこれだけ外堀を固められたら、光希も反対しないと思う」
「過保護なお兄ちゃんを持つと大変だね」
絹は無邪気に笑い飛ばしてくれたけれど、私としては決死の覚悟だ。正直、不安しかないし光希が怒ったらどうしようということばかり考えてしまう。
光希は今日、そう遅くならずに帰ってくると言っていた。

決戦は、今日だ。

「ただいま、あおい」
「おかえり、光希」
帰宅した光希を玄関まで迎えに行き、荷物とスーツの上着を受け取る。
この行為も、何だか奥さんみたいで嬉しかった。光希のお嫁さんになりたいなんて夢見ていたこともあったけれど。
結局、叶わないまま私はこの家を出ていくことになる。
光希の広い背中を見ていると、勝手に涙が溢れそうになった。

「わぁ、あおい!こんなに美味しそうなご飯を作ってくれたの?」
「頑張ったつもりだけど、多分光希が作るよりは美味しくないと思う」
「そんなことないよ!食べるのが楽しみだな」
ニットとデニムに着替えた光希はダイニングにやってきて、大げさなくらいに私の料理に喜んでくれた。
今日の夕食は、私なりに誠意を顕わしたつもりだ。今までの感謝の気持ちを込めた。
「あおいのビーフシチューは特別に美味しいんだよね!お腹が空いちゃったよ」
「元はと言えば光希が教えてくれた料理じゃない。たくさん作ったから」
光希直伝の大切なレシピ。圧力鍋で作れば本格的な味になるし、失敗が無いよと丁寧に教えてくれた。玉ねぎの切り方も、お肉の選び方も。料理道具の使い方も、大切な事は全部光希が教えてくれた。
……恋の苦しみも、喜びも、この胸の切なさも。

「あおい?食べようよ」
「あ、うん」

光希に促されて椅子に座り、私たちは夕食を開始した。

相変わらずというか何と言うか、光希は私の料理をべた褒めしてくれた。
こんな美味しいものが食べられるなんて最高、あおいの旦那さんになる人は幸せ者。
今まで何度となく繰り返されてきた賛辞の言葉を、私は最後だと思って有難く受け止めた。
彼が私を非難したりけなしたことなど一度も無い。光希こそ、最高の旦那さんになれるだろう。

「今日はコーヒーも私が淹れる」
「わあ、サービスいいね。じゃあ、お願いしちゃおうかな」

光希が淹れる方が格段に美味しいのでいつもはお願いしているが、今日は食後のコーヒーも私が用意する。豆はパナマ産のゲイシャを選び、カップは光希の一番お気に入りのものを。
このコーヒーを飲みながら話す内容を考えただけで、私の手は震えてしまいそうになった。

「ん、このコーヒーも美味しいね!」
そんな私の気持ちは露知らず、光希は顔をぱあっと明るくさせて喜びを溢れさせた。
「喜んでもらえたなら、良かった」
私も一口すすって、素直に嬉しい気持ちを告げた。
さあ、時はやってきた。
私はごくりと唾を飲み込んで、改めて光希に向きなおった。

「光希、……今まで、ありがとう」
「……?なに、どうしたの?」
幸せそうにコーヒーを飲んでいた光希の表情が曇る。私がいつもと違うことを感じ取ったのだろう。
一瞬怯みそうになるが、もう後には引けないのだ。
「……赤の他人の私と一緒に住んでくれて、有難う。優しくしてくれて、有難う」
「何を言っているの?君は僕の妹だろう、そんなの当然だよ」
「私は、あなたの妹じゃない」
声は震えていたけれど、私ははっきりと告げた。
「……あおい、何かあったの?僕、何かやっちゃったかなぁ。ふふ、困ったな」
光希はこの重苦しい空気を明るく笑い飛ばそうとおどけてみせた。それでも、私の態度が変わらないのを見るとやがて押し黙った。
「私は、ここを出ていく。次に住む場所ももう決めてある。本当に今まで有難う」
「どうして……」
「実の妹でもない私の面倒を、これ以上光希にみさせるわけにはいかない。高校を卒業したら、ここを出ていく」
決意が揺るがないように、一息で告げた。背筋をつうっと冷や汗が滴り落ちていくのを感じる。
「法律的なことを言っているのであれば、そんな事は気にしなくていいんだよ。縁あって家族になったことは、」
「もういやなの」
私は優しく諭そうとする光希の言葉を遮った。これ以上聞いたら、流されてしまう。
「他人の私が、光希の人生の邪魔をしているんじゃないかって怯えるのは嫌なの。あの時あおいさえいなかったら、って後悔する日がきっと来る」
「……僕がそんなことを言うとでも?」
光希の目の温度が下がった。声もワントーン低くなった気がする。きっと光希は怒っている。
「ちゃんと光希には自分の幸せを掴んで欲しいの。あと、ずっと貰っていた、これ」
私はあらかじめ用意しておいた、書類サイズの封筒を光希に差し出した。
「これは何だろう」
光希が私をじっと見据えた。思わずたじろぎそうになるが、必死の思いで言葉を紡いだ。
「今まで光希が私に渡してくれていたお小遣い。全部、返す。手は付けていないから」
私の言葉を聞くと、光希はみるみる顔を歪ませていった。
怒りとも、悲しみとも、絶望ともつかない表情だった。

私が言葉を失っていると、光希が力任せにダイニングテーブルを叩いた。耳をつんざくような、激しい音が部屋中に響く。
ものすごい衝撃に、コーヒーカップの中身は無残にも飛び散った。
光希がこんな風に私に向かって怒りを爆発させるのを見るのは初めてだった。
私はそれだけのことをしてしまったのだ。すべてを受け止めようと、私は目をそらさずに見続けた。

テーブルの上で拳をわなわなと震わせていた光希は、やがてゆっくりと顔を上げた。
先ほどまでとは全く違う、何かを諦めた様な穏やかな表情がそこにはあった。

「……あおい、元気で」

いつもの甘く優しい声で告げられた一言は、はっきりとした別離の言葉だった。
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