その恋、記憶にございませんっ!
 




 揺れ過ぎる蘇芳のビートルから、あのホテルを振り返りながら、唯は思う。

 朝、子どもの頃に戻ったのかと思ったとき、泣きそうになったけど、でも。

 蘇芳さんがおはようって来たとき、もう一度、子どもに戻るのは嫌だなって思ってしまった。

 あの頃は、お父様もお母様もみんなも、なにも大変なことなんてなく、幸せで。

 ……いや、まあ、あの人達は、結構何処でも幸せそうなんだけど。

 子どもに戻ったと思ったとき、私は嬉しくて懐かしくて、泣きそうになった。

 でも、蘇芳さんの顔を見たとき、もう一度、人生をやり直したくはないなと思ってしまった。

 もし、あのとき、私が酔ってフライドチキンのおじさんに愚痴ることもなく。

 もし、あのとき、蘇芳さんがそれを聞いてることもなく。

 もし、あのとき、人形を連れて帰ろうとした阿呆な私に、蘇芳さんが、そっと手を差し出してくれることもなかったら――。

 本当に、わずかになにかがずれただけで、起きなかった奇跡のような出来事だったんだな、と今は思う。
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