その恋、記憶にございませんっ!
「いえいえ。
 ほんとに大丈夫ですから。
 ではっ」
と唯は素早く去ろうとしたが、椅子に座ったままの蘇芳に、

「待て」
と言われた。

 気のせいかもしれないが。

 犬かなにかに命令している感じなんだが、と思いながら、振り返ると、蘇芳は大真面目な顔で、
「キスしていかないのか?」
と訊いてくる。

「なななな、なんなんでですかっ」

「恋人同士の別れだ。
 当然だろう」

 別れって。
 私、家に帰るだけなんですけどっ。

 っていうか、いつ、我々は、恋人同士になりましたかっ!

 ……なんというか。
 王子様に助けられたというより、小悪魔から逃げ出そうとして、大悪魔に捕まった感じだ、と唯は固まる。

 まあ、小悪魔から逃げるつもりもなかったんですけどね……と思いながら、
「いえ。
 結構ですっ。

 本当に結構ですっ」

 そう繰り返し、では、失礼しますっ、とその場から逃げ去る。

 それにしても、なかなか目が覚めないな、この夢、と思いながら――。










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