ここにはいられない
ドキドキしながら右手を差し出すと、千隼は右手だけでなく両方の手をふんわり包み込むように握った。
想いを噛み締めるように、痛みをこらえるように、何かを祈るように、私の指先を唇に当てる。
「菜乃が好きだ」
柔らかく動いた唇から震えるように言葉をこぼす。
じわじわとしびれるような喜びが、指先から全身に広がった。
まだ薄暗い部屋の中の明るさが、日が射したように数段上がって感じられた。
心から好きになった人に想いを返してもらうことは、それほどに強い力がある。
「『幸せにする』とか『優しくする』とか約束できない。加減なんてわからないから」
言葉通りぎゅっと力強く手を握られて、私の中まで全部掴まれたように痛くなった。
吐きそうなほどの気持ちがどうしたら伝わるのかわからなくて、握られたままの手を勢いよく引いた。
そしてわずかに前のめりになった千隼の唇に衝突するように口付けた。
痛かった。
ぶつかった唇も、歯も、ぎゅうぎゅうと抱き寄せられた身体も、千隼への気持ちが溢れて止まらない心も。
痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い、痛い。
幸せって痛い。
圧倒的に経験不足な私では、唇を付ける以上の技術は持っていなくて、すぐに千隼に委ねることになった。
冷静さなんてとっくに失くしているから、何をされているのかわからない。
キスってこんななの?
昨日のと全然違う。
熱さと感じたことのない幸福感に飲み込まれていきそうなのを千隼に掴まってようやく堪えているのに、それでもグズグズと沈んでいく。
どんなに必死にしがみついても、千隼の前では砂程度の強度しかないみたい。
呼吸もできない。
お互い全力疾走したみたいに息が切れているのに離れられない。
何をどうしても伝え切れない。埋まらない。終わらない。
キスはすればするほど足りなくなる。
千隼の腕の中はやっぱり居心地が悪くて、離れたくないのと同時に逃げ出したくなる。
動悸が激しくて収まらないから全然安らげない。
おかしくなりそう。
このままここにいたら、きっとこれまでの私には戻れない。
あの時はそれが怖くて拒絶した。
本当は今だって少し怖い。
それでも、相手は千隼だから。
誰より信じられる人だから。
きっと私は出会った瞬間からすでにおかしくなっていたんだと思う。