ここにはいられない
あまりのことに呆然としてしまって、私も一部始終をしっかり見てしまった。
が、当然大ちゃんの衝撃はそれ以上。
これから仕事であるにも関わらず、スーツの袖でゴシゴシと何度も唇を擦った。
「━━━━━何すんだよ!気持ち悪ーな!」
「これで菜乃の感触は思い出せなくなっただろ」
「はあ?何の話・・・」
千隼から逃れるように精一杯壁にへばりついている大ちゃんが、首を回して私を見る。
自分でも真っ赤になっているのがわかるから、慌てて顔を隠すように背けた。
「え?嘘?そうなの?」
「うん・・・昨日、あの後すぐに」
目を逸らしたまま嵐が過ぎ去るのを待つ。
はっきり言わなくても、大ちゃんは理解してくれたようだ。
「そうなんだ。・・・千隼、ごめん」
相変わらず表情はないまま、千隼は何かを飲み込んでゆっくり息を吐いた。
「仕事はいいのか?」
「いや、そろそろ行く」
よろよろと壁から離れ、もう一度頭を下げる。
「二人とも、本当にごめん。じゃあ、また」
大ちゃんが残していった気まずい空気は私たちに重くのしかかった。
「菜乃」
俯いていた顔を上げると、千隼は目を合わせないようにして立っていた。
無表情なのは変わらず、当たり前だけど機嫌が良くないことだけは確実だった。
「今日、行く」
「・・・はい」
言い訳も拒否も、何も差し挟む余地のない声だったので、私はただ頷くことしかできなかった。