ここにはいられない
玄関で靴を履く千隼に土下座するくらいの気持ちで頭を下げた。
「本当に本当にお世話になりました。申し上げる言葉もございません」
「いや、こちらこそ。ごちそうさまでした」
まだ引き留めて言い足りない言葉を探したかったけど、もうあまり時間がない。
「じゃあ、いってらっしゃい」
「行ってきます。気をつけて」
事前に予想できなかった少し妙なやりとりで、私たちの同居は終わった。
名残惜しさのない、いつもと完全に同じ音をさせてドアが閉まる。
ポッカリと気が抜けてしまった。
引っ越しはこれからなのに全然気合いが入らない。
少しボーッとしたまま洗い物をし、部屋の掃除をしながら少ない荷物を適当にダンボールに詰めて自分の部屋に運ぶと、ちょうど業者さんが到着した。
プロが段取りよく運び出す間、私は立ち会うだけですることは何もない。
ガスの確認が終わってしまえば、あとは鍵を掛けてポストにガムテープを貼って終わりだ。
新しいアパートへはお昼を挟んで午後に搬入してもらうことになっている。
鍵から鉄瓶キーホルダーを外す。
これと合い鍵の2本は月曜日に総務課に返却することになっているからポケットに突っ込むと、カチャッと音がした。
朝受け取った千隼の部屋の鍵。
千隼の部屋も忘れ物がないか一通り確認する。
襖に付けられたまだ新しい内鍵にそっと触れた。
私がここにいた形跡はこれくらいしか残っていなかった。
本当は鍵なんてなくても私は少しも不安じゃなかった。
千隼は気持ちの伴わない相手に無理矢理迫るようなことはしない。
ちゃんと相手を見て、気遣える人だから。
私もそろそろお昼を食べて移動した方がいいのだけど、もう一度だけ、と部屋を回った。
見渡す限り忘れ物などなく、ここに住んでいたことが嘘だったんじゃないかって、悲しくなるほどだった。
思い立って外した鉄瓶キーホルダーを千隼の鍵に付ける。
それをテーブルに乗せると、ほんの少し笑みがこぼれた。
「大変お世話になりました」
部屋と、特にトイレに向かってつぶやいて、朝千隼がそうしたように、いつも通りに部屋を出た。