契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
しかし、その顔は忍によってすぐ上向きにされる。

そして忍は、睫毛を軽く伏せ、再び鈴音の唇に触れた。柔らかな口をスルッと滑っていく感触は、塗り心地がいい。微かに香るフローラルの香りに、鈴音は思わず瞼を閉じた。

「鈴音には、こっちのほうが似合う」

真っ暗な中で、しっとりとした艶やかな声が聞こえてくる。
鈴音は、ドキドキと高鳴る胸に、自分でまだ気づいていない。そのままゆっくり視界を広げていくと、口元を緩やかに弧を描いた忍が映った。

「代わりに、これを」

鈴音は差し出された手に、反射的に両手を皿にして受け取った。

手のひらには、黒地の本体にレーザー彫刻で花が描かれているローレンスのリップ。そっと左手に持ち替え、キャップをそっと外す。
そうして覗いて見えたのはベビーピンク色。

「あの色は完全に親父の趣味だ。もう使わなくてもいい」

忍は鈴音から顔をふいっと逸らし、ぶっきらぼうに言うと、シートベルトを装着してハンドルを握った。
アクセルに右足を乗せ、踏み込もうとしたのを寸止めする。

「運命、ね。あれはなかなか、いい返しだったな」
「あっ、あれは、急だったから……きゃっ」

あたふたと返すも、途中で急発進されて口を閉じる。
ホテルをあとにし、車を走らせている間の忍は、どこか楽しそうな横顔に見えた。

鈴音は、『あれは嘘も方便だ』と言い切れずに黙ったまま。なぜなら、百パーセント嘘のつもりで口走ったことではなかったからだ。

恋に落ちるという意味合いでの運命ではないけれど、出会ったふたりが互いに問題を抱えていて、助け合う流れにまでなったのだ。ある種の運命と言ってもおかしくはないと、咄嗟にあのとき考えてしまった。

冷静になった今、あの場を乗り切るためとはいえ、ちょっと恥ずかしいことを言ってしまったと頬を赤らめる。
動揺する鈴音とは裏腹に、忍は落ち着いた様子で話題を変える。

「明日」
「はっ、はい?」
「前にも言ったけど、引っ越し業者に依頼してある。オレは立ち会えないが、柳多には言ってあるから」

(本当に一緒に暮らすんだ)

この期に及んで、実際にはそこまですることにはならないのでは……と淡い期待を抱いていた。
しかし、忍がさらりと報告してきた内容は、鈴音の気持ちを裏切るもの。

「わ、わかりました……」

鈴音は、致し方なく消え入るような声で返事をし、また憂鬱な気分を引きずる。自分のアパートへ帰るのは今夜が最後なのだと気づいたが、どこかまだ現実を受け止められずに車に揺られていた。
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