契約婚で嫁いだら、愛され妻になりました
「気にしなくていい」

忍の低く落ち着いた音は、鈴音の頭のてっぺんからゆっくり心へ浸透する。
秒を追って忍を見上げると、黒曜石のような濃色の瞳に捕われた。

「これも、契約内容に含まれているようなものだ」

ひとつも表情を変えず言われた。

(黒瀧さんの感情が、読めない)

面倒だと思われているのか。それとも、仕事の一貫だと割り切ってなにも感じていないのか。

(どちらかと言えば、後者かもしれない)

鈴音は忍と視線を交わらせながらそう考えつつも、漠然とこう感じた。
『本質は、優しい人なのかもしれない』と。

思い返せば、忍は無駄や面倒を嫌うような人間らしい。
それは本人が発した言葉からも感じ取れたし、昨日会った光吉もそのようなことを口走っていた。

そういう人のはずなのに、道端で偶然出くわした他人を助け、今もなお支えてくれている。

ビジネス的な婚約。鈴音は、彼の今までの言動について、理論的に考えたうえでのことばかりだと思っていたのに、自分を抱きしめる理由がわからない。

(だって、一緒に住んでたって見て見ぬ振りもできるのに)

確かに忍は、結婚の対価として『守ってやる』とは言っていた。
その約束を守るためだけに、義務として今こうして抱きとめられているのかと思うと、鈴音はなんだか胸の中がざわついた。

自分の野望のために気遣われているのかと気づくと、咄嗟に距離を取った。

「あ、あの……少し、落ち着きましたから」

顔を上げることができぬまま、細い声で伝える。そうして、「失礼します」と自室へ足を向けた。
山内のことでパニックになり、さらに忍の予想外の応対に頭の中が混乱したままドアを開ける。

「荷物を全部運んで、これなのか?」
「えっ!?」
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