Fragrance
オフィスに広がる洋梨の香りを嗅ぐたびに、彼が出社して来たのだと分かる。
清水 萌衣(しみず もえ)。
一流大学を卒業し、大手化粧品会社の秘書課に勤めて早5年。
そろそろ周囲に結婚をしたらとお見合いの写真が、親戚から届けられている28歳だ。
「萌衣さん。女は望まれて嫁に行くのが一番幸せなのよ」
今時珍しくお節介な親戚のおばさんがいるだけで、こんなにも神経が削られる日々を過ごすとは幼い頃は夢にも思っていなかった。
結婚をしたくない訳ではない。
夢見がちと言われるかもしれないが、結婚は好きな人としたい。
「おはよう。ミスシミズ」
社長であるジャン・ブラウンが、萌衣の席までやって来て挨拶をする。
ジャン・ブラウン。
32歳。
独身。
萌衣の働いているアメリカ大手化粧品会社の社長の一人息子で、日本の支店を大きくするために一時的にこの日本に滞在している。
彼は日本の文化が大好きだそうで、社内でその話が挙がった際に立候補したのだそうだ。
実際彼が来て、日本の支社はあっという間に世間に浸透し大きくなっている。
そんな彼のスケジュールを管理するのが萌衣の仕事だった。
何故か彼に気に入られ、専属の秘書をやっている。
「あ、おはようございます」
出迎えなかったことを詫びながら萌衣は必死に頭を下げた。
洋梨の香りは彼の香水、English Pear & FreesiaというJo Maloneというブランドだ。
その香りが漂うたびに、彼が出社してきたのだとすぐに分かる。
余計なことを仕事中に考えているせいだ。
「珍しいですね。エリートのモエが考え事をするなんて」
ニヤリとからかうような表情をジャンは浮かべる。
「大変申し訳ございません」
再び謝罪を重ねると「謝るのではなく、モエの悩みを共有させてくれませんか?」と彼は優しく尋ねた。
社長なのに全く持って偉そうにしていない。
穏やかな性格のジャンとの相性は悪くなかった。