アレキサンドライトの姫君

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ハインリヒ王国は、ヴァルトニア公国の西側に位置し広大な国土を有する大国である。
強大な権力・財力・軍事力を誇り、周辺国はハインリヒの機嫌を損ねないように…と常に顔色を窺いながら媚び諂う。
敵に回せば勝ち目はない、そんな認識が強いのだ。逆を言えば、ハインリヒが擁護してくれれば怖いもの無しという観念も強いらしい。
国内の情勢も豊かで穏やかで、大陸一と称えられるほどに栄華を極めていた。

そんな国の第一王子としてこの世に生を受け、生まれながらにして王太子であるディルクは未だかつてないほど困惑していた。
容姿にも知性にも体力にも更には運にも恵まれ、どんな困難も大して尽力せずともこれまで乗り越えられてきた。
勿論、己一人の力でないことは百も承知だし自分が多くの人に支えられていることも理解している。
それでも、大概のことは上手く処理できるはずと自負していただけに、この状況には戸惑わずにはいられない。
私室の机に向かい、手にした書類の内容を何度も目で追っているのに一向に頭に入ってこないほどに。
諦めたように机の上へと書類を放り投げ、椅子の背凭れに背中を深く預けて天井を仰いだ。

「彼女は人の心を惹きつけ過ぎる…」

ぽつりと呟かれた本音。それが全ての原因だった。
双子の片割れの弟ヴェルホルトはともかく、あの堅物のラオムまでもが思わず見せた思慕を含んだ眼差しに驚愕と動揺を隠せなかった。
既に面識があったというシャルフ大司教は聖職者だというのにエーデルにあからさまな好意を抱いていたし、
そういえば、先日謁見の間でエーデルに初めて会った 国王(父親)でさえ『私の第四夫人として迎えたいくらいだ』と言い出す始末だった。
エーデルを王宮に招き入れたことを公にしていない現状。それも踏まえて、先程聖堂に向かった際にもあまり人目に触れないようにと配慮した道順で進んだ。にも拘らず、王宮には多くの衛兵が配備されているため数名の目には留まってしまったようだった。
彼女を見たその全ての者が我を忘れたように魅了され惚ける様を改めて目の当たりにした。
余計なことを詮索しない、王宮内で見聞きしたことは決して口外してはならないーーー臣下・衛兵・使用人たちにはそんな鉄則を強いているため変な噂が飛び交うようなことはないと思うが、このままではいろいろとまずい。
彼女に恋焦がれ、欲しがっている人間など星の数ほど存在する。
そんなこと分かっていたはずだった。なのに、何故。何年も会えずに離れて暮らしていた時より、今こうしてこの壁の向こう…隣の部屋にいるというこの状況の方が不安に思ってしまうのか。
猜疑心が渦巻き、疑心暗鬼なる。
早く公表し、周知させたいーーーアレキサンドライトの姫君は王太子妃になるのだ、と。
エーデルシュタインは自分のものだ、と。
心身共に強固な繋がりが欲しい。
そう思った時、自分の中で情欲が漲りそうになるのを感じた。
彼女の身体を組み敷いてその柔肌を暴きたい。
身体中に印を刻み付けて、泣き喚いても朝まで執拗に攻め立てこの腕の中で失神させてしまいたい…と。
愚かな欲望を打ち払うように頭を振ってから机へと視線を落とすと、四つ折りにされた例の紙切れが目に入った。
『ヴァルトニアの国宝は、私が頂戴します』
これを書いた差出人は一人かもしれないが、そう思っているのは衆多なのだろう。
しかし、誰にも彼女は渡さない。
エーデルシュタインは、自分のためだけに輝くアレキサンドライトなのだ。
宙を睨みながらそう心の中で呟いた時、部屋にノックがあった。

「どうぞ」
「兄上」

現れたのは、ハインリヒ王国第三王子であり腹違いの弟であるグランツだった。

「珍しいな、お前が私の部屋に来るとは」

まだ幼いとはいえ利発で寡黙。そして、時には幼さを武器に狡猾さも垣間見せる。
普段はディルクとは必要最低限の会話しかしない、そんな彼がわざわざここにやってくること自体がとても珍しい。
扉を閉めて、ディルクの執務机の前までゆっくりと歩み寄ると、グランツは相変わらずの無表情のまま言葉を紡ぐ。

「さっき、兄上が回廊を一緒に歩いていたのって…アレキサンドライトの姫、ですよね?」
「ああ、そうだが」
「僕にあの姫を…譲っていただけませんか?」
「何?」

咄嗟に鋭い視線を送りながら見上げたグランツの表情に吃驚した。
グランツが笑みを浮かべている、しかも頬を赤らめて。
いつもどこか一線引いたような姿勢で何事にも無関心そうにしながら、喜怒哀楽を口にも態度にも表さないあのグランツが。

「初めてです。誰かを見てこんなに心が揺さぶられたのは…」

あまりに衝撃的な告白に、その真偽さえ疑わしかった。
本音なのか虚偽なのか。
この告白の裏に何か謀略があるのではないか。
疑念を抱かずにはいられないこの状況に、ディルクは意を決した。

「エーデルは私のものだ。誰であろうと、絶対に彼女は渡さない」

ーーー知らしめてやる、エーデルシュタインが誰のものか。

垂涎の的である彼女が誰の手の中に落ちたのか、篤と見るがいい。
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