アレキサンドライトの姫君
-3-
その夜。
入浴後の濡れた髪を乾かしてから丁寧に梳いてくれるミーナが鏡越しにエーデルに語りかけた。
「エーデル様の綺麗な御髪(おぐし)が、ここだけ短くなってしまいましたね。…今日は本当に驚きました」
「まさか貴女が扉の隙間からあれを見ていたなんて、全然気付かなかったわ」
「だって、お茶をお持ちしたらいきなりヴェルホルト殿下がエーデル様の髪を引っ張っているんですもの。私、驚いてしまって…思わず立ち竦んでしまいました」
後からミーナに聞いたことだが、昼間のあの場面を彼女は見てしまっていたらしい。
元々『後でお茶をお持ちします』と言われていたので彼女はそれを為しただけなのだが、エーデルの部屋に到着した途端ヴェルホルトとエーデルの唯ならぬ雰囲気の会話が耳に入り、そっと扉を開けて室内の様子を窺っていたらしい。
「私、あんなヴェルホルト殿下を拝見したのは初めてで…混乱してしまって。いつも温厚でお優しい殿下が…何故…」
未だに信じられないといった様子でミーナは髪を梳いてくれている。
「エーデル様が剣で髪を切り落とされたのには更に驚きました。でも、凛と言い放ったエーデル様は本当に気高くてお美しくて…。あんな場面でしたけど、私、感動しました」
「感動してもらえるようなことじゃないのよ? ただ、ディルク様のために必死で自分を守っただけなのだから」
エーデルが無意識に腕に巻かれた包帯へと手を遣ると、ミーナが心配そうにそう尋ねてくる。
「あ、腕の傷が痛みますか?」
入浴後も彼女は清潔な脱脂綿で傷口の消毒と薬を塗ってくれて包帯を腕に巻いてくれた。
擦り傷程度だというのに、ディルクにしてもミーナにしても過剰なまでの心配ように却って申し訳なく思ってしまう。
「大丈夫よ。ありがとう」
これ以上心配させまいとエーデルはにっこりと微笑んでみせると、ミーナは頬を赤らめて俯く。
「痛かったらすぐに言ってくださいね。宮廷医師(せんせい)にお薬をいただいてきますから」
止めていた手を動かして、ミーナはまた髪を念入りに梳いてくれる。
鏡越しの自分の髪を眺めながらエーデルは呟いた。
「その部分の長さに合わせて髪を切ってしまおうかしら。少し長く伸びすぎたかなって思っていたの」
「…そうですね。今は一番長いところで腰の下あたりまでありますから…ここに合わせたとしても二の腕くらいの長さになりますね。このくらいならなんとか結い上げるのも問題なさそうですけど…、でも、ディルク殿下に聞いてみたほうが良いかと思いますよ?」
「そうかしら?」
「ええ、その方が良いと思います。幸い短くなった部分はほんの少しですし、毛先を巻いたり結い上げたりすれば上手く誤魔化すことも出来ます。そんなに早急に決断されることはないと思いますよ。私が毎日綺麗に整えますから、どうぞご安心ください」
胸を拳で叩きながら自信ありげに力強く微笑んでそう言うミーナにエーデルも微笑む。
「…あ、エーデル様! 私ったら伝えるのをすっかり忘れそうになっておりました」
急に何かを思い出したようにミーナは顔をはっと上げて鏡越しにエーデルの瞳を見つめた。
「ディルク殿下からのご伝言です。明日からエーデル様にはお妃教育を受けていただきたい、とのことです」
「お妃教育?」
「はい。我がハインリヒ王国の歴史や文化、伝統、風習などと、宮廷における礼儀作法やしきたり…お妃様というお立場に必要な教養を身につけていただくため、だそうです」
どこに出しても恥ずかしくないようにと、両親はエーデルに幼い頃から豊富な教育を施してくれた。
博識な兄からも勉強を教わっていたし、エーデル自身勉学に勤しむのは嫌いではない。むしろ、それが自分の中で知識となり蓄積されていくのが嬉しかった。
しかし、その教養もこの異国の地では役の立つのかがわからない。
真っ新な気持ちで挑もうと気が引き締まる思いだった。全ては、彼のために。彼の隣に並んで、恥ずかしい思いなどさせないように。
「エーデル様の全てのお妃教育を担当されるのは女官長のイルザ様だそうです」
「女官長?」
ミーナがあまりにも不快そうな表情で告げたのでエーデルは気になって聞き返してみる。
「はい…。イルザ様は…エーデル様より十以上歳上の女性なのですが…、私たち使用人に対して…その…あまりにも…態度が…あれなので…」
「あれ?」
二人きりの部屋の中だというのに少し声量を落としながら言いにくそうに言葉を濁してそう言い、更に人目を気にするようにきょろきょろと室内を見回している。
「イルザ様はご自分より上位の方々には大いに阿諛追従なさいます。だから王族の方々はイルザ様に好意を持たれているはず。しかし、下位の者は卑しめるのです。態度が横柄というか…高慢で…とにかく高飛車で…」
エーデルの耳に口を寄せて、耳打ちするようにそう告げた。
「そうなの…」
「ええ。それと…これはあくまで噂なのですが…」
「?」
「このようなことをエーデル様のお耳に入れても良いものかと思うのですが…。でも、昼間のこともありますし、お伝えしておきますね」
そう前置きをして、意を決したようにミーナが囁いたその続きは。
「あくまで噂なのですが…。イルザ様はヴェルホルト様と男女の関係にあるとか…」
「え!?」
脳天から足先へ、一瞬のうちに衝撃が駆け抜けた。
「イルザ様は昔、お身体の弱いヴェルホルト様の教育係的なお立場にあったようです。ヴェルホルト様へ献身的に尽くされ、そして、そこに恋情があったとか…」
言葉も出せず、ただ息を潜めるようにようにしながらミーナの話に耳を傾ける。
「だから、もしその噂が本当なのだとしたら、イルザ様がエーデル様に嫉妬の矛先を向けるかもしれないと…思って、心配してしまって」
ミーナが言わんとするところは、ヴェルホルトが兄への復讐のためとはいえエーデルを欲しがっているなら、ヴェルホトルに恋情を抱くイルザがエーデルに悪意のある言動を向けるかもしれないという懸念。
「本当に、あくまで噂なので真偽の程は分からないのですが、一応念のため、それを念頭に置いてイルザ様のお妃教育をお受けください。私も出来る限りお部屋の外で待機しておりますので、何かあったらすぐに声をかけてくださいね」
櫛をトレイへ置いて手の平でエーデルの髪の質感を確かめるように撫でてから、ミーナは満足したように頷いて立ち上がる。
「下世話な使用人たちの不確かな噂話だというのに…エーデル様のお耳に入れてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ。予め知っておいたほうが何かと都合が良いこともあるもの。教えてくれて感謝しているわ」
「そう言っていただけると嬉しいです。それでは、エーデル様。私はこれで失礼します。今日はお疲れになったでしょう。どうかごゆっくりお寝みくださいませ」
「ありがとう、ミーナ。おやすみなさい」
一礼して退室したミーナを視線で見送ってから、エーデルは溜息をついた。
ハインリヒに来てから常に気を張る状況ばかりが続いている。
人を簡単に信用してはならない、とか。
気を許すな、とか。
警戒や猜疑心などほとんど不必要だった母国(ヴァルトニア)での穏やかな暮らしとは真逆の環境に心労が絶えない。
ミーナの言動でさえ信用するなとディルクに言われたものの彼女にはそんな僅かな片鱗も窺えないし、心から慕い尽くしてくれているのが分かる。
それでも、ディルクの言いたいことも分かるから全てを信用しているわけではないが、好意的に振る舞われれば人を信じたい気持ちというのはどうしても沸き起こるものだ。
「どうしたらいいの…」
光量の落とされた薄暗い室内。
小さく呟かれた言葉は静寂に溶けていった。
入浴後の濡れた髪を乾かしてから丁寧に梳いてくれるミーナが鏡越しにエーデルに語りかけた。
「エーデル様の綺麗な御髪(おぐし)が、ここだけ短くなってしまいましたね。…今日は本当に驚きました」
「まさか貴女が扉の隙間からあれを見ていたなんて、全然気付かなかったわ」
「だって、お茶をお持ちしたらいきなりヴェルホルト殿下がエーデル様の髪を引っ張っているんですもの。私、驚いてしまって…思わず立ち竦んでしまいました」
後からミーナに聞いたことだが、昼間のあの場面を彼女は見てしまっていたらしい。
元々『後でお茶をお持ちします』と言われていたので彼女はそれを為しただけなのだが、エーデルの部屋に到着した途端ヴェルホルトとエーデルの唯ならぬ雰囲気の会話が耳に入り、そっと扉を開けて室内の様子を窺っていたらしい。
「私、あんなヴェルホルト殿下を拝見したのは初めてで…混乱してしまって。いつも温厚でお優しい殿下が…何故…」
未だに信じられないといった様子でミーナは髪を梳いてくれている。
「エーデル様が剣で髪を切り落とされたのには更に驚きました。でも、凛と言い放ったエーデル様は本当に気高くてお美しくて…。あんな場面でしたけど、私、感動しました」
「感動してもらえるようなことじゃないのよ? ただ、ディルク様のために必死で自分を守っただけなのだから」
エーデルが無意識に腕に巻かれた包帯へと手を遣ると、ミーナが心配そうにそう尋ねてくる。
「あ、腕の傷が痛みますか?」
入浴後も彼女は清潔な脱脂綿で傷口の消毒と薬を塗ってくれて包帯を腕に巻いてくれた。
擦り傷程度だというのに、ディルクにしてもミーナにしても過剰なまでの心配ように却って申し訳なく思ってしまう。
「大丈夫よ。ありがとう」
これ以上心配させまいとエーデルはにっこりと微笑んでみせると、ミーナは頬を赤らめて俯く。
「痛かったらすぐに言ってくださいね。宮廷医師(せんせい)にお薬をいただいてきますから」
止めていた手を動かして、ミーナはまた髪を念入りに梳いてくれる。
鏡越しの自分の髪を眺めながらエーデルは呟いた。
「その部分の長さに合わせて髪を切ってしまおうかしら。少し長く伸びすぎたかなって思っていたの」
「…そうですね。今は一番長いところで腰の下あたりまでありますから…ここに合わせたとしても二の腕くらいの長さになりますね。このくらいならなんとか結い上げるのも問題なさそうですけど…、でも、ディルク殿下に聞いてみたほうが良いかと思いますよ?」
「そうかしら?」
「ええ、その方が良いと思います。幸い短くなった部分はほんの少しですし、毛先を巻いたり結い上げたりすれば上手く誤魔化すことも出来ます。そんなに早急に決断されることはないと思いますよ。私が毎日綺麗に整えますから、どうぞご安心ください」
胸を拳で叩きながら自信ありげに力強く微笑んでそう言うミーナにエーデルも微笑む。
「…あ、エーデル様! 私ったら伝えるのをすっかり忘れそうになっておりました」
急に何かを思い出したようにミーナは顔をはっと上げて鏡越しにエーデルの瞳を見つめた。
「ディルク殿下からのご伝言です。明日からエーデル様にはお妃教育を受けていただきたい、とのことです」
「お妃教育?」
「はい。我がハインリヒ王国の歴史や文化、伝統、風習などと、宮廷における礼儀作法やしきたり…お妃様というお立場に必要な教養を身につけていただくため、だそうです」
どこに出しても恥ずかしくないようにと、両親はエーデルに幼い頃から豊富な教育を施してくれた。
博識な兄からも勉強を教わっていたし、エーデル自身勉学に勤しむのは嫌いではない。むしろ、それが自分の中で知識となり蓄積されていくのが嬉しかった。
しかし、その教養もこの異国の地では役の立つのかがわからない。
真っ新な気持ちで挑もうと気が引き締まる思いだった。全ては、彼のために。彼の隣に並んで、恥ずかしい思いなどさせないように。
「エーデル様の全てのお妃教育を担当されるのは女官長のイルザ様だそうです」
「女官長?」
ミーナがあまりにも不快そうな表情で告げたのでエーデルは気になって聞き返してみる。
「はい…。イルザ様は…エーデル様より十以上歳上の女性なのですが…、私たち使用人に対して…その…あまりにも…態度が…あれなので…」
「あれ?」
二人きりの部屋の中だというのに少し声量を落としながら言いにくそうに言葉を濁してそう言い、更に人目を気にするようにきょろきょろと室内を見回している。
「イルザ様はご自分より上位の方々には大いに阿諛追従なさいます。だから王族の方々はイルザ様に好意を持たれているはず。しかし、下位の者は卑しめるのです。態度が横柄というか…高慢で…とにかく高飛車で…」
エーデルの耳に口を寄せて、耳打ちするようにそう告げた。
「そうなの…」
「ええ。それと…これはあくまで噂なのですが…」
「?」
「このようなことをエーデル様のお耳に入れても良いものかと思うのですが…。でも、昼間のこともありますし、お伝えしておきますね」
そう前置きをして、意を決したようにミーナが囁いたその続きは。
「あくまで噂なのですが…。イルザ様はヴェルホルト様と男女の関係にあるとか…」
「え!?」
脳天から足先へ、一瞬のうちに衝撃が駆け抜けた。
「イルザ様は昔、お身体の弱いヴェルホルト様の教育係的なお立場にあったようです。ヴェルホルト様へ献身的に尽くされ、そして、そこに恋情があったとか…」
言葉も出せず、ただ息を潜めるようにようにしながらミーナの話に耳を傾ける。
「だから、もしその噂が本当なのだとしたら、イルザ様がエーデル様に嫉妬の矛先を向けるかもしれないと…思って、心配してしまって」
ミーナが言わんとするところは、ヴェルホルトが兄への復讐のためとはいえエーデルを欲しがっているなら、ヴェルホトルに恋情を抱くイルザがエーデルに悪意のある言動を向けるかもしれないという懸念。
「本当に、あくまで噂なので真偽の程は分からないのですが、一応念のため、それを念頭に置いてイルザ様のお妃教育をお受けください。私も出来る限りお部屋の外で待機しておりますので、何かあったらすぐに声をかけてくださいね」
櫛をトレイへ置いて手の平でエーデルの髪の質感を確かめるように撫でてから、ミーナは満足したように頷いて立ち上がる。
「下世話な使用人たちの不確かな噂話だというのに…エーデル様のお耳に入れてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いいえ。予め知っておいたほうが何かと都合が良いこともあるもの。教えてくれて感謝しているわ」
「そう言っていただけると嬉しいです。それでは、エーデル様。私はこれで失礼します。今日はお疲れになったでしょう。どうかごゆっくりお寝みくださいませ」
「ありがとう、ミーナ。おやすみなさい」
一礼して退室したミーナを視線で見送ってから、エーデルは溜息をついた。
ハインリヒに来てから常に気を張る状況ばかりが続いている。
人を簡単に信用してはならない、とか。
気を許すな、とか。
警戒や猜疑心などほとんど不必要だった母国(ヴァルトニア)での穏やかな暮らしとは真逆の環境に心労が絶えない。
ミーナの言動でさえ信用するなとディルクに言われたものの彼女にはそんな僅かな片鱗も窺えないし、心から慕い尽くしてくれているのが分かる。
それでも、ディルクの言いたいことも分かるから全てを信用しているわけではないが、好意的に振る舞われれば人を信じたい気持ちというのはどうしても沸き起こるものだ。
「どうしたらいいの…」
光量の落とされた薄暗い室内。
小さく呟かれた言葉は静寂に溶けていった。