誰も知らない彼女
先生が普段使う机の近くにあるスツールに腰をおろす。


そのときに磐波さんが救急箱を持ってきたので、慌てて立ち上がった。


「い、磐波さん! いいですよ、自分で持っていきますから!」


しかし、私の言葉を完全にスルーしてなんのためらいもなくスツールの横の小さな机に救急箱を置く磐波さん。


横顔がチラッと見えたので覗き込んでみると、真剣な表情をしていたので顔が赤くなるのを感じた。


血が出ていないほうの腕で顔を隠してうつむくしかない。


これ以上止めても磐波さんがやめる気配がないので、仕方なくスツールに座って待つことにする。


黙ったままうつむくこと数十秒、ようやく磐波さんがこちらを向いた。


「腕、出して」


びっくりした。


真剣な目つきで言ってきたものだから、つい心臓を止めてしまいそうだった。


血が出ている腕を磐波さんに見せた瞬間、磐波さんの表情が強張った。


「……結構血が出てるね。抹里ちゃんって、利き手こっち?」


「いえ、利き手は逆のほうです」


「そう。ならいいけど……」


今手当てしてもらっているのは左腕。


利き手は右だから、なにかを持つとき痛むとなにも持てない。


だから血が出ているのが利き手じゃなくてよかったとひと安心している。


左腕を汚す真っ赤な血をふき取り、そこに消毒液を塗っていく彼をじっと見つめることだけが、私のできることだし。
< 196 / 404 >

この作品をシェア

pagetop