誰も知らない彼女
そんな……いいよ。


磐波さんのせいで気まずくなったわけじゃないんだから。


「き、気を遣わなくてもいいですよ! 私が話せなくなったのは磐波さんのせいじゃないですから!」


握られたほうとは違う手をブンブンと横に振ってみせる。


そのとき、磐波さんの顔がほんのり赤みを帯びているような気がしたが、夜の闇が視界を邪魔してはっきり見えない。


いや、夜の闇が邪魔していたからよかったかもしれない。


その表情の意味を、今はまだ理解したくない。


そう思ったと同時に、磐波さんの声がかすかに聞こえた。


「ありがとう……」


私にはよく聞こえなかったけど、磐波さんがすぐに歩きはじめたので気のせいだったと思う。


今度は私の右手を包み込むように優しく握りながら歩幅を小さくする。


再び私たちはしばらく黙ってしまったが、今の会話で空気が少しやわらいだ。


歩きながら、私は磐波さんにバレないように自然な笑顔を浮かべた。


今日はいい経験をしたな。


磐波さんが家まで送ってくれたおかげか、このときは奇妙な視線のことを考えなくて済んだ、とひと安心する私がいた。


だが、この日をきっかけに、私の日常は少しずつ崩れはじめることになってしまう……。
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