あなたしか見えないわけじゃない
彼が帰宅したのは23時過ぎだった。

帰ってくるなり
「藤野、キミさ、伊織にわざとワゴンをぶつけたって?」
と不機嫌そうに言った。

え?
伊織?いおり?いおりって。
香取先生の名前って、伊織なの?

マグカップの『IO』いお

彼の寝言の『……おり』は
しおりじゃなくて『いおり』

そうか。
そうだったんだ。

「藤野、何とか言えって」
黙っている私にイライラしている様子。
帰って来る前に彼女と会っていたのだろうか。

「私はワゴンを押したり彼女を突き飛ばしたりしていないし、患者さんの指示受けも忘れたり間違えたりしていない。あなたはどっちを信じるの?」
彼の目を強く真っ直ぐ見つめて言った。

「は?」
彼は眉をひそめる。

「私が言うことと香取先生が言うことのどちらを信じてくれるの?」

お願い、私を信じて。両手を握り締め願いを込めて彼を見つめた。

「伊織が嘘をついているってことか?」
目を細めて腕を組み私を見る。
先ほどより口調は落ち着いているけど、不機嫌には変わりないし、今どちらを信じているかはわからない。

「そうよ」
冷静にならなきゃ。
感情的になって騒ぎ立てるのはよくない。彼には何があったのかしっかりとわかって欲しい。

お願い、私を信じて。

「じゃ、なんで伊織はあんなに痛がっているんだよ。歩くのも辛いって半泣きで、湿布を貼って軽く足を引きずるようにして歩いていたんだぞ」

組んだ腕はそのまま。
冷たい視線で私を見下ろしてきた。

「大きな音がして、私が振り返ったらワゴンと香取先生が倒れていたのよ。私が何をしたって言うのっ?私は何もしてないわっ!」

彼の冷たい表情に抑えていた感情が爆発する。

「どうして信じてくれないのよ!私も泣けばいいの?泣いたら信じてくれるの?!」

お腹の奥から怒りと悲しみがこみ上げてきて、大きな声になる。悔しい。何でなのよ。

彼は大きくため息をつき、私を突き放す言葉を言った。
「藤野、伊織は嘘をつくような奴じゃないよ。昔から知ってる。3年前まで付き合っていたんだ」

以前、聞いたことがある。
元カノと別れた理由は相手が海外留学してしまったからだって。
そう、それが香取先生。
それで、香取先生が帰国したからまた2人は元サヤに収まろうとしているんだ。
私は邪魔者。

「私はもういらないってことね!」
抑えていた涙がこぼれ落ちた。

「こんなものがベッドに落ちていたわ!」

手に持ったピアスをバンッとテーブルに置いた。

「あ…」彼は気まずそうな顔をした。

言い訳も何もない。何があったかはその態度でピンときた。
やっぱりそういうこと。
私は邪魔者。
私たちの関係は終わりだな、そう確信した。

「帰ります」

バッグをつかんで勢いよく彼の部屋を飛び出した。
夜中だろうがバスも電車もなかろうが関係ない。
エレベーターも使わないで非常階段を走って降りた。
泣きながらタクシーが拾えそうな駅前を目指して走った。

悔しい、悔しい。
悲しいより悔しい。
どうしてよ、私が何をしたっていうの。
涙が溢れて止まらない。


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