あなたしか見えないわけじゃない
落ち着いたところで洗面所にうがいをしに行くと、わかりやすく新しいタオルと歯ブラシが置いてあった。

すごい気配り。

歯ブラシを咥えても吐き気がしないことを確かめて軽く磨いてすっきりしてからリビングに戻った。

洋兄ちゃんはリビングのソファーに座り学会誌を読んでいたけど、私が入った来ると顔を上げた。
「志織、何か飲むかい?」

「うーん、お水」

「座ってて」すぐに立ち上がってキッチンに行った。
ミネラルウォーターのボトルとコップを手に戻って来るとにやっと笑った。

何だろ?
洋兄ちゃんの笑いの意味がわからなくて首をかしげる。

「志織は相変わらず、野生動物みたいだな」

あ、そういうことか。

昔、2人で読んだ『猫の飼い方』に載っていた。
飼い猫が病気になった時、野生の本能が残る猫は隠れてしまって出て来ないことがあると。逆に飼い主に甘えてベッタリになる猫は野生の本能が薄いってことなのかな?って話したんだ。

「ふーんだ、どうせ飼い猫にも山猫みたいに野生動物にもなれない野良猫だよ」
口をとがらせた。

「いいんだよ。野生が残る飼い猫の方が自立しているしかわいいし。そっちの方が魅力的だよ」

洋兄ちゃんはははっと笑った。

その後、食欲がない私は洋兄ちゃんの作ってくれたおにぎりを少しとお味噌汁を飲んだ。
洋兄ちゃんは自分用にお肉を焼いて私に少し食べさせた。

キッチンの片付けもしなくていいと言われて、ソファーに戻ったけど落ち着かない。
目を閉じるとまた、脳裏に嫌なイメージが浮かんできそうで怖い。

一度恐怖を感じると胸の奥がざわざわとして今にも震えがきそうだ。
ソファーから走ってキッチンにいる洋兄ちゃんの背中に飛びついた。

「洋兄ちゃん」
後ろから抱き付いた私に驚きもせず「志織、一緒にリビングに行くか?」と聞いた。
「このままでいい。まだ洗い物終わってないでしょ?」
「あと少しね」
「じゃ、こうしてていい?」
「いいよ。お姫さまの気の済むように」

洋兄ちゃんがかちゃかちゃと洗い物の続きをしている間ずっと私は目を閉じることなくしがみついていた。


昔から私の逃げ場は洋兄ちゃんだった。

大切にしていた髪飾りを落とした時
仲良しの友達とケンカして仲直りがなかなかできなかった時
飼い猫が死んでしまった時
テストの結局が悪く母に叱られた時
帰宅時間が遅くなって父に叱られた時

いつだって洋兄ちゃんは私の頭を撫でたり、背中をさすってくれたり、私が落ちつくまで話をしたりしてくれた。
こんないい歳をして洋兄ちゃんの所に逃げ込むのはどうかと思うけど、今1番会いたいのは洋兄ちゃんだった。





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