花落ちる都の皇后
穆邪利
邪利は父親がいなかった。
母親が以前、仕えていた宋欽道の娘ではないかと専らの噂だった。
玫瑰の花のように美しく育った邪利を一目見ようと生け垣には村の青年が群がっていた。
ある日、粗末な家の前に輿が停まった。絹を纏った侍女らしい女が現れて庭先で野菜を洗っていた邪利に声をかけた。
「奥様が胸痛を起してしまった。医者はおらぬか?」
「医者は遠くにいますが胸痛に効く薬がうちにあります。奥様に飲ませてください」
そう言って邪利は腰に下げていた巾着から丸薬を取り出した。
「胸痛には芍薬が効くというから…」
丸薬を受け取ると侍女らしい女は輿の御簾を捲し上げた。
ちらりと奥様と呼ばれる女の顔が一瞬だが見えた。
美しい女だった。
しばらくして輿から奥様が手を引かれながら降りてきた。
邪利のいる庭先まで歩み寄ると柔らかな声で語りかけた。
「お陰で助かった…おや、なんと美しい娘だろう。宮中の女官よりも美しい。こなたは陸令萱と申す。気が向いたら陸府に来ると良い。そなたを女官にしよう」
そう言うと陸令萱は裳を翻して輿に向かった。
あまりの出来事に邪利は言葉を発することを忘れていた。
陸令萱を知らない者はいない。
皇帝の乳母で、太后とも昵懇の仲であり、宮中一の権力者だった。
卑しい身分に落とされたが、彼女は才気と万事そつがない性格でのし上がったのである。
邪利はそんな女傑に顔を覚えられ、なおかつ女官にしようと言われたのだ。
とんだ幸運だった。
卑しい身分に産まれた邪利の夢は尊くなることだった。
蔑まれて生きなければならない運命を陸令萱のように変えたいとくすぶる心を抑えていた。
その日の夜、邪利は昼間の話を母親にした。
母親は針仕事をしながら娘の話を聞いた。陸令萱の名前を出した途端に母親は顔を上げた。
「あの陸令萱様がいらしたの?」
「そうよ。私を女官にしてくれると言ったわ」
「邪利、本当かい!?女官になるのはお辞め」
「女官になってもらわないと困るね」
戸口の方から声がした。
そこに居たのはこのあばら家の大家の老人だった。
すかさず母親が大家に言った。
「大家さん、もう少し待ってください。お家賃は払いますから」
「そう言って三月も払ってないじゃないか」
「母さん、どういうこと?」
邪利は心配そうに母親の顔を見つめた。痩けた頬が影を濃くする。
そこに大家が声をかけた。
「邪利、聞いたとおりだよ。出ていくか、娘を女官にするかだ」
厳しい口調で大家は言った。
「母さん、私は女官になるわ。大家さん、それで良いでしょうか?」
「邪利もそう言っている。話は聞いていたよ、陸府にはわしが送っていくから安心して欲しい」
大家の言葉に母親は抑えていた涙をぼろぼろと流し出した。針仕事をしても、洗濯をしても2人の生活は苦しかった。
それを邪利は感じていた。自分が女官になるということは自分の運命を切り開く他に母親を助けることでもあった。
母親に追い打ちをかけるように大家が言った。
「宋欽道様が処断されたよ…邪利を守るためにも女官にした方がいい」
母親は嗚咽を激しくした。
「邪利、もう私の娘じゃない!女官でも何でもなればいい!」
邪利も堪えていた涙がこぼれ落ちた。
母親は邪利に瞳を向けるとすぐに瞳を逸らして背を向けた。
その日は大家の屋敷で邪利は一晩過ごした。
粗末な寝台に身を横たえて瞳を閉じる。すると母親との思い出がこみ上げてきた。
こんな形で別れるとは思ってはいなかった。
女官になるのは自分の意思だが、それには母親を犠牲にしなくてはならなかった。
邪利は布団をぎゅっと握りしめた。
冷たい夜だった。月明かりすらも冷ややかで、鏡に映りこんだ光は冴えた刃のようだった。
なんとか眠りについた邪利は夢の中で鳳凰が舞うのをみた。眩いばかりの光に七色の尾がたなびいていた。
はっ、と目を覚ますと夜は明けており旭が眩しく光っていた。
髪を手櫛で直しながら寝台から降りると鏡の前に座った。
鏡に映った顔はいささか疲れているように見えた。
目を伏せると鏡の前から立ち上がり、大家の元に向かった。
起きてきた邪利に大家は一礼をすると軽食をすすめたが、彼女は首を横に降った。
そして何も口にしないまま大家が用意した輿に邪利は乗り込んだ。
陸府は都の一等地にある。人は陸府を小宮殿と呼んでいた。それほど陸府は立派な屋敷だった。
輿に揺られながら邪利は何も考えないようにした。考えたら再び涙がこぼれ落ちそうだったからだ。
何時間、経っただろう。
輿が停まったのは夕暮れ時だった。
邪利が輿から降りると門の前で頭を下げる侍従や侍女が彼女を出迎えた。
「ここが陸府…陸令萱様のお屋敷…」
夕日に照らされて朱に染まる瓦に青々と茂る木々を引き立てている。
色彩が鮮やかな印象だった。
侍従、侍女の間から群青色の衣を纏った陸令萱が現れた。
「待っていたぞ。そなた、名前は?」
「邪利と申します」
邪利は頭を下げた。
「邪利、よく来たな。房を用意してある。そこで休むといい」
「お気遣いありがとうございます」
邪利が頭を上げると見計らったかのように年若の侍女がやって来て房に案内した。
侍女に案内されている間、邪利はただ真っ直ぐに瞳を向けて誰とも言葉を交わさず歩いた。
房の前まで行くと侍女は足を止めて頭を下げた。
邪利が房へ入ると侍女は戸を静かに閉めた。
天蓋付きの寝台に鏡台、衣桁には薄桃色の衣がかけてある。
卓の上には化粧箱と宝石箱が置いてあり、中身はどれも贅沢な品だった。
邪利は寝台に腰を下ろした。
すると戸が開いて、そこから侍女が入ってきた。
「あなたは?」
そう邪利が尋ねると侍女は彼女の前まで行き、頭を下げた。すくっと頭をあげると口を開いた。
「奥様から邪利様の教育を任されました、大蘇にございます。皆は私を大姑姑と呼んでおります」
「大姑姑…私もそう呼びます」
「敬語はおやめ下さい。邪利様は女官になるお方、わたくしめは一介の侍婢でございます」
「わ、分かった」
大蘇は手短に自己紹介を終えると房を後にした。
一人になった途端に睡魔がやってきた。邪利は欠伸をすると身体を横たえた。
翌朝、目を覚ますと侍女が身支度のために彼女を待っていた。
鏡台の前に座らせられると玉の櫛で髪を梳き、都で流行りの高髷に結い上げた。
顔は薄く白粉をはたいた。
身支度を全て侍女に任せていると段々、別人になっていくような気がした。
あの垢抜けない邪利はもういないように感じられた。
身支度を終えると大蘇がやって来た。大蘇は軽食を運んできてくれた。
軽食を取り終えるととすぐに大蘇の講義が始まった。
皇帝には斛律皇后という正室がいるが、太后の姪である胡昭儀を寵愛しているという。
昭儀というのは大夫と同じ位で、その上には貴妃や淑妃がある。
大蘇は休まず話した。
皇帝にはたくさんの妃嬪がいることや、皇后が将軍の娘であること。一通り話すと大蘇は女官としての教養を教えた。
邪利は文盲だった。
大蘇によって初めて文字というものを彼女は知った。
初めて彼女が書いた文字は数字の一だった。
それから千字文、詩経をおそわった。
大蘇は教養が深い女性だと邪利は感心するしかなかった。針仕事と刺繍しか出来なかった母親とは正反対の人間に思えた。
それから毎日、邪利は大蘇から学んだ。邪利は学ぶことに貪欲になっていた。
それには大蘇も舌を巻いた。
教養を身につけた邪利は更に美しくなってた。
令萱は大蘇から邪利の様子を聞いて久しぶりに会うことにした。
中庭で令萱は邪利と会った。
「邪利や、大姑姑から聞いたぞ。あっという間に文字を覚えて詩経も暗唱できるようになったとか」
「全て大姑姑のお陰にございます…後宮の女官の足元にも及びません」
「いや、今の女官は陛下の気を引く化粧にしか興味がない。太后様も嘆いておられる。邪利、太后様に推薦状を書いた。皇后様の女官として登用された」
「えっ!皇后様の女官でございますか!?」
「そうだ。誠心誠意お仕えするのだぞ…そして…」
令萱は邪利の白い手を握りしめ、瞳を真っ直ぐに向けて言った。
「陛下の妃となるのだ」
「陛下の?邪利にはさっぱり分かりません」
「邪利よ、お前に目をかけたのは他でもない。妃になる為だ…お前は中宮の相がある」
中宮の相とは皇后になる人の顔のことである。
邪利はそれを持っているというのだ。
「こなたはお前を皇后にする。そう約束しよう」
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