花落ちる都の皇后
邪利は後宮に入り、斛律皇后の侍女となった。
良く仕える邪利はいつしか太監と呼ばれるようになった。
皇后に呼ばれて寝所に向かうとそこには皇帝がいた。
「陛下、ごきげんよう」
「そなが太監か。令萱の言う通り美しいな」
「恐れ入ります…陛下、皇后さまはどちらに?」
「皇后?ああ、方便だ」
皇帝は邪利の方に歩み寄ってきた。邪利は思わず後ずさりしようとしたが、皇帝がすかさず彼女の細い腰に手を回した。
「まさか朕を拒まぬな?」
「陛下…」
皇帝の行動に立腹したのは寝所を汚された斛律皇后だった。元々、斛律皇后を嫌っていた太后は大笑いをした。
邪利は内心でヒヤヒヤしたが、皇帝の手が着いたことで夫人に封じられた。
姓がない邪利を皇帝は令萱の養女とした。陸に相対する穆の姓を与えられた。
邪利は穆夫人と呼ばれるようになった。
夫人となった邪利を皇帝は寵愛し続けた。
そんな中、皇帝は斛律皇后の父親を処断した。連座するように皇后は廃された。
太后は空位の皇后の座に自分の姪である胡昭儀を就けようとした。皇帝は邪利を皇后にしたかったが、母親である太后に押し切られる形で胡昭儀が皇后になった。
それには令萱も憤慨した。
しかし、成す術はなかった。ただ、今はその時ではないと策略を巡らすのだった。
胡皇后は曹昭儀に目をかけていた。曹昭儀はそこそこの寵愛を賜っており、いい駒だった。
その日、皇后は側妃らを宴に招いた。邪利も勿論、呼ばれていた。
宴でも曹昭儀はまるで侍女のように皇后のそばに侍っている。
邪利は言った。
「昭儀様は皇后様のお側がお好きなのですね」
「側妃と言えども女官に変わりませんわ。皇后様や陛下に仕えるのが仕事ですもの」
すると邪利は微笑した。
「まあ、陛下のお渡りが少ない昭儀様からそんな言葉を聞くなんて」
曹昭儀は眉間に皺を寄せた。すかさず皇后が言葉を発した。
「これ、穆夫人。昭儀に失礼でしょう。こなたらは姉妹同然。寵愛は慈悲のように分け与えるべきでわ?」
「皇后様のお言葉はごもっとも。ですが、陛下のお心はお一つしかございません。どう分け与えれば良いのでしょう?」
後宮に入って邪利は口達者になっていた。それは自分でもわかっていた。しかし、それは武器だ。言葉は諸刃の剣である。言葉には言葉で、剣には剣を交えるべきだと邪利は考えていた。
「それにこなたは懐妊したようです」
邪利の言葉に皇后は持っていた杯を落とした。何かが皇后の中で音を立てて崩れていくのがわかった。
「こなたがお仕え出来なくなる分、昭儀様がお仕えしてくださいませ」
そう告げると妊娠すると疲れやすいからと言う理由で邪利は宴を後にした。
邪利が懐妊した話はすぐに皇帝と太后の耳に届いた。
皇帝は邪利を貴妃にした。
貴妃になった邪利は皇帝の命で皇妣を祀る儀式の祭主となった。
本来なら皇妣を祀る儀式の祭主は皇后が任命される。
しかし、皇帝はその特別な権限を邪利に与えたのだ。
懐妊してから令萱は甲斐甲斐しく邪利の世話をした。
面白くないのはかつての寵姫、曹昭儀である。
曹昭儀は姉の曹氏に頼んである者を後宮に忍ばせた。
「ねぇ、本当にやるの?」
姉の曹氏が言った。
「やるに決まっているわ。後戻りはできないもの…」
そう言って曹昭儀は机の上の風呂敷を開けた。
そこには病で死んだ幼児の骨があった。昔から懐妊した女の房の下に幼児の骨を埋めると女も胎児も呪われて死ぬという言い伝えがあった。
曹昭儀はそれを信じたのである。
曹氏は止めるように根気強く説得したが、曹昭儀は聞く耳を持たなかった。
夜、曹昭儀は邪利の御殿に忍び込んだ。見張りの宦官が巡回する前に骨を埋めなければならない。
土に慣れていない曹昭儀は手を汚すことに抵抗を感じて深い穴が掘れずにいた。
そこに灯が見えた。
曹昭儀は慌てて骨を埋めるとその場を後にした。
胡皇后は曹昭儀の行動を黙認していた。彼女も曹昭儀と同じ気持ちだったからだ。
朝になり、挨拶に訪れた令萱がおかしな盛土を見つけた。
その側には銀の簪が落ちている。
「時が来た…」
令萱は邪利に挨拶せずに踵を返した。その足で向かったのは皇后の元だった。
「皇后様、ごきげんよう」
「あら、珍しい。どうなさったの?」
「実は貴妃様の御殿で呪いの品を見つけました」
「何を言っているの?この後宮では呪いはご法度よ。それをやる者がいたというの?」
皇后は平然と言った。しかし、組まれた手は震えている。令萱はそれを見逃さなかった。
「皇后様、そこには簪が落ちておりました。多分、どこかの妃嬪の物でしょう」
「有り得ない!」
「まあ、そんなに声を荒らげて。実は拾った簪に見覚えがありましてね…曹昭儀の物でしょう」
「なぜ、それをこなたに言うの?」
「なぜって…皇后様が後宮の主だからです。後宮の主が妃嬪の呪術を黙認していたわけありませんよね?」
「令萱、こなたはどうすれば良いの?」
「その座を降りてくださいませ」
令萱は鋭く突き刺さすように言った。皇后はその場に崩れ落ちた。
「なぜ、こなたがこの座を…昭儀であった頃より苦しいのはこの座にいるからなの?」
令萱は不敵に微笑すると御殿を後にした。
一人残された皇后はまだ昭儀であった頃を思い出した。
あの頃は寵愛もあり、幸せだった。
皇后になってからはお飾りの人形のようだった。
「所詮、こなたは人形…皇后という名の人形に過ぎない…邪利、この座に就いてみろ。こなたの苦しみが分かる時がくる…それまで夢を見ていろ」
皇后は太后に自分を廃するように願い出た。そして曹昭儀が邪利を呪ったことを告げた。皇后は寺送りに、曹昭儀は死刑を言い渡された。
空位の皇后の座は邪利のためにあった。
月が満ちて男子を産んだ邪利は貴妃から皇后へと上り詰めた。令萱は太姫という位を賜り、その待遇は皇女以上になった。
邪利が産んだ男子は後に最後の皇帝となる幼主であった。
百官から礼を受けて玉座に腰を下ろした邪利はその後、自分が戦禍に飲み込まれていくとは露にも思ってなかった。
良く仕える邪利はいつしか太監と呼ばれるようになった。
皇后に呼ばれて寝所に向かうとそこには皇帝がいた。
「陛下、ごきげんよう」
「そなが太監か。令萱の言う通り美しいな」
「恐れ入ります…陛下、皇后さまはどちらに?」
「皇后?ああ、方便だ」
皇帝は邪利の方に歩み寄ってきた。邪利は思わず後ずさりしようとしたが、皇帝がすかさず彼女の細い腰に手を回した。
「まさか朕を拒まぬな?」
「陛下…」
皇帝の行動に立腹したのは寝所を汚された斛律皇后だった。元々、斛律皇后を嫌っていた太后は大笑いをした。
邪利は内心でヒヤヒヤしたが、皇帝の手が着いたことで夫人に封じられた。
姓がない邪利を皇帝は令萱の養女とした。陸に相対する穆の姓を与えられた。
邪利は穆夫人と呼ばれるようになった。
夫人となった邪利を皇帝は寵愛し続けた。
そんな中、皇帝は斛律皇后の父親を処断した。連座するように皇后は廃された。
太后は空位の皇后の座に自分の姪である胡昭儀を就けようとした。皇帝は邪利を皇后にしたかったが、母親である太后に押し切られる形で胡昭儀が皇后になった。
それには令萱も憤慨した。
しかし、成す術はなかった。ただ、今はその時ではないと策略を巡らすのだった。
胡皇后は曹昭儀に目をかけていた。曹昭儀はそこそこの寵愛を賜っており、いい駒だった。
その日、皇后は側妃らを宴に招いた。邪利も勿論、呼ばれていた。
宴でも曹昭儀はまるで侍女のように皇后のそばに侍っている。
邪利は言った。
「昭儀様は皇后様のお側がお好きなのですね」
「側妃と言えども女官に変わりませんわ。皇后様や陛下に仕えるのが仕事ですもの」
すると邪利は微笑した。
「まあ、陛下のお渡りが少ない昭儀様からそんな言葉を聞くなんて」
曹昭儀は眉間に皺を寄せた。すかさず皇后が言葉を発した。
「これ、穆夫人。昭儀に失礼でしょう。こなたらは姉妹同然。寵愛は慈悲のように分け与えるべきでわ?」
「皇后様のお言葉はごもっとも。ですが、陛下のお心はお一つしかございません。どう分け与えれば良いのでしょう?」
後宮に入って邪利は口達者になっていた。それは自分でもわかっていた。しかし、それは武器だ。言葉は諸刃の剣である。言葉には言葉で、剣には剣を交えるべきだと邪利は考えていた。
「それにこなたは懐妊したようです」
邪利の言葉に皇后は持っていた杯を落とした。何かが皇后の中で音を立てて崩れていくのがわかった。
「こなたがお仕え出来なくなる分、昭儀様がお仕えしてくださいませ」
そう告げると妊娠すると疲れやすいからと言う理由で邪利は宴を後にした。
邪利が懐妊した話はすぐに皇帝と太后の耳に届いた。
皇帝は邪利を貴妃にした。
貴妃になった邪利は皇帝の命で皇妣を祀る儀式の祭主となった。
本来なら皇妣を祀る儀式の祭主は皇后が任命される。
しかし、皇帝はその特別な権限を邪利に与えたのだ。
懐妊してから令萱は甲斐甲斐しく邪利の世話をした。
面白くないのはかつての寵姫、曹昭儀である。
曹昭儀は姉の曹氏に頼んである者を後宮に忍ばせた。
「ねぇ、本当にやるの?」
姉の曹氏が言った。
「やるに決まっているわ。後戻りはできないもの…」
そう言って曹昭儀は机の上の風呂敷を開けた。
そこには病で死んだ幼児の骨があった。昔から懐妊した女の房の下に幼児の骨を埋めると女も胎児も呪われて死ぬという言い伝えがあった。
曹昭儀はそれを信じたのである。
曹氏は止めるように根気強く説得したが、曹昭儀は聞く耳を持たなかった。
夜、曹昭儀は邪利の御殿に忍び込んだ。見張りの宦官が巡回する前に骨を埋めなければならない。
土に慣れていない曹昭儀は手を汚すことに抵抗を感じて深い穴が掘れずにいた。
そこに灯が見えた。
曹昭儀は慌てて骨を埋めるとその場を後にした。
胡皇后は曹昭儀の行動を黙認していた。彼女も曹昭儀と同じ気持ちだったからだ。
朝になり、挨拶に訪れた令萱がおかしな盛土を見つけた。
その側には銀の簪が落ちている。
「時が来た…」
令萱は邪利に挨拶せずに踵を返した。その足で向かったのは皇后の元だった。
「皇后様、ごきげんよう」
「あら、珍しい。どうなさったの?」
「実は貴妃様の御殿で呪いの品を見つけました」
「何を言っているの?この後宮では呪いはご法度よ。それをやる者がいたというの?」
皇后は平然と言った。しかし、組まれた手は震えている。令萱はそれを見逃さなかった。
「皇后様、そこには簪が落ちておりました。多分、どこかの妃嬪の物でしょう」
「有り得ない!」
「まあ、そんなに声を荒らげて。実は拾った簪に見覚えがありましてね…曹昭儀の物でしょう」
「なぜ、それをこなたに言うの?」
「なぜって…皇后様が後宮の主だからです。後宮の主が妃嬪の呪術を黙認していたわけありませんよね?」
「令萱、こなたはどうすれば良いの?」
「その座を降りてくださいませ」
令萱は鋭く突き刺さすように言った。皇后はその場に崩れ落ちた。
「なぜ、こなたがこの座を…昭儀であった頃より苦しいのはこの座にいるからなの?」
令萱は不敵に微笑すると御殿を後にした。
一人残された皇后はまだ昭儀であった頃を思い出した。
あの頃は寵愛もあり、幸せだった。
皇后になってからはお飾りの人形のようだった。
「所詮、こなたは人形…皇后という名の人形に過ぎない…邪利、この座に就いてみろ。こなたの苦しみが分かる時がくる…それまで夢を見ていろ」
皇后は太后に自分を廃するように願い出た。そして曹昭儀が邪利を呪ったことを告げた。皇后は寺送りに、曹昭儀は死刑を言い渡された。
空位の皇后の座は邪利のためにあった。
月が満ちて男子を産んだ邪利は貴妃から皇后へと上り詰めた。令萱は太姫という位を賜り、その待遇は皇女以上になった。
邪利が産んだ男子は後に最後の皇帝となる幼主であった。
百官から礼を受けて玉座に腰を下ろした邪利はその後、自分が戦禍に飲み込まれていくとは露にも思ってなかった。