クラウンプリンセスの家庭教師
トリスの変化
 選んでもよいのだと、伯母は言った。気持ちが昂ぶっているのは、ワインのせいだけでは無い。自分は王にならなくてはならないと思い込んでいた。しかし、その王位こそ、血の粛清によってもたらされたものだったのだ。長子相続を正しいとするならば、百年前に既に歪みは始まっていた。

 王から弟へ、夫から妻へ、あるいは娘へ。誰もが己の正当性を謳いながら、法則を捻じ曲げていた。そこにあったのは、何だろう。

『王になりたい』望むものに『王位』を継がせたい。

 それははたして正しい事なのだろうか。太古。血の粛清が行われるさらに古い歴史。その頃の王は、生贄であったという。大勢を救う為、自らを犠牲にするものが王であった。

 どこで曲がってしまったのだろうか。百年前からだろうか。あるいはその前から。ロトブルク家、かつてグリチーネ家のように栄え、王家をないがしろにしたという一族。今と何が違うのか。ロトブルク家を粛清した王子は、何の為に血を流したのか。民の為か、己が王位につく為なのか。
 既に王家の墓に眠るであろう先祖に問う術は無い。

 トリスが良き王になろうとしたのは、父の為であり、父に王位を継がせる為に生きてきた伯母であり、祖母の為だった。父の子では無いかもしれない自分だが、「王女」であり、王位を継ぐべき立場である以上、責任を全うしなくてはいけないと思っていた。

 本来は、誰がなってもよいのでは無いのか、他にふさわしい人間がいるのではないか。何が正しくて、何が正しくないのか。

 深く、息を吸い、一気に吐き出す。自分は、どうしたいのか。

 カイの意見を聞いてみたかった。彼なら、なんと答えるだろうか。王族に生まれついた義務を果たすべきだと言うだろうか。そして何より、女王にならない私は、カイには不要な人間なのでは無いだろうか。彼は女王を教育する為にやって来た。女王にならないトリスはカイにとって不要な人間だ。
 トリスが、即位から逃げたら、妹がクラウンプリンセスとして立つのだろうか。カイは、妹と議論を戦わせるのだろうか。見聞きした世界の出来事を熱っぽく語ってくれるのだろうか。
 カイの中には、こうあるべき王の姿が見えているようだった。少しでもそれに近づきたいと、いつしかトリスは思うようになっていた。自分の中のあるべき王の姿と、カイの中にある王の姿は、そう遠くは無かったが、トリスよりも広く世界を知っているカイの話には、書物だけでは得られない厚みのようなものがあった。自分のなりたい王の姿の先に、カイの描く王があった。

「……私は、カイの為に女王になろうとし始めているのだろうか」

 ひとりごち、あわてて自分の体を抱きしめる。いつからだろうか。そんな風に思うようになっていたのは。

 男であればよかったのに、男であれば何の問題も無かったのに、と、繰り返す母の言葉。おそらくは王子を生む為に、父を裏切った母。自分が王子として生まれていれば、母はあんな風にはならなかったのではないだろうか。父は、弱った体をもっと早くに休ませる事ができたのではなかろうか。
 だからこそ、トリスはあるべき王位継承者になるよう懸命に努力した。もうじきその努力は実を結び、女王になるはずだったのに。

 私は、ここに居たいです、伯母上。どうして今更あんな事をおっしゃったのですか。

 女王となる、たった一人で。その時カイはどこにいるのだろうか。私は夫を持たない。そう誓った。しかし、カイはどうするのだろうか。カイを慕う女官の誰かを娶るのだろうか。そして、夫婦で私に仕えてくれるのだろうか。孤独な私の傍らで、彼は私ではない女を愛するのだろうか。そしてその女は、カイの子供を産むのだろうか。

 それは、今のトリスではとうてい耐えられそうになかったが、いずれは、時間が解決してくれるのではないかとも思った。
 カイに、誰にも触れてほしくない、と、今は思う。私は心を凍らせる。何にでも耐えられるように。血塗られた王家の後継者として、人を殺めてまで先祖が欲した王位を、守る事に、どれだけの意味があるのだろうと、己に問いながら、私は、もうじき、女王になるのだ。

 月の無い、闇夜、しかし、この世界のどこかにカイがいる。そう思うだけで、どんな辛い事にも耐えられる、そんな気がした。
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