クラウンプリンセスの家庭教師
家庭教師 カイ・グロース
「忘れてはならない、虐げられた一族を。 忘れてはならない、己の本来の役割を」
何度も、何度も。物心ついた頃から繰り返される父の言葉。
幼いカイにとって、世界は見たまま、あるがままにすぎなかった。しかし、父は違った。父にとって、暖かな日差しも、豊かな作物も無意味なものだった。己の居場所、あるべき場所は王都首座であると。
辺境の小さな村。さらにそのはずれにひっそりと住まう父と子。その毎日は幼いカイにとって苛酷だった。帝王学は言うに及ばず、語学、薬学、ひっそり生きる為には不釣り合いな多くの書物。剣術、馬術、体術。どれほど上手にそれをこなしても、父はそれを褒める事はなく、より高みへ、もっと、さらに。と、時にはムチや拳が見舞われた。カイが成長し、世界中をくまなく旅する日々になっても、それは変わらなかった。
父の望むままに、己を鍛え上げ、見聞を広げ、旅を終え、村に戻ったある日の事だった。父とカイ、二人だけの家に、一人の女がやってきた。最初、カイは、父が後添いを娶ったのだと考えた。父はまだ若く、母親を知らないカイにとって、もしかして自分にも温かい「家族」ができるのかもしれないと期待した。父とカイの関係は、親子というよりは師弟のそれであって、カイは父を恐れていたが、ぬくもりのようなものを感じた事がなかったからだ。
しかしそれは期待はずれだった。女は、父では直接教える事のできない、女の体を取り扱う為に呼ばれた娼婦だった。
王都に住まう国王には、息子がついに生まれなかった。長女がクラウンプリンセスとして、いずれ女王になるのだという。だから、知力と腕力だけでは足りないのだ。と、父が言った。
理性を失わず、溺れず、女を操る事ができるようにならなくてはならない。カイと娼婦と父親の、奇妙な特訓が始まった。「手本」として施される父の技に、娼婦が溺れてしまった。父に焦がれた娼婦は、父を愛し、狂った。
カイが、留守から戻ると、何度も何度も刺された父の血まみれの遺骸と、己で首を掻き切ったであろう、女の躯が折り重なって倒れていた。カイにとっては剣と体術の師であった父が、非力な女にやすやすと殺されるとは思えなかったが、どこか満足そうな死に顔に、もしや父も娼婦を愛していたのかもしれないと、カイは思った。
父が死に、もう、カイには、『王家への復讐』しか残っていなかった。他の生き方を学ばなかったのだ。
幸い、既にクラウンプリンセスの家庭教師として、宮廷に入る算段はついていた。
父と娼婦を共に弔った。母親に少し悪いような気もしたが、カイは母親の墓を知らない。恨むなら父を恨んで欲しいと思った。
今後二度と戻る事の無いであろう小さな家に火を放った。カイにはもう、帰るべき家も、家族も無いのだ。カイ自身は、王家に恨みは無い。このまま孤独に、一人で気ままに生きたとしても、誰も咎めはしないだろう。しかし、それでは、今までの自分の人生が無駄なものになってしまうような気がした。これは父からかけられた「呪い」それを成就させない限り、カイの人生は、終わるどころか始めることさえできない気がした。
「やはり、行くのかね」
象牙の塔の賢者エデルは、カイと父の数少ない知り合いだった。カイは、象牙の塔で、数多くの事を学んだ。エデルはカイにとって、父同様の師であった。
老賢者はカイを孫のようにかわいがってくれた。カイにとって、仮に家族があるとするなら、父ではなくエデルがそうだった。エデルは、カイに象牙の塔で学問を続け、追究する道を示してくれた。
「……父の、悲願でしたから」
もし、失敗したならば、カイの命はそこで終わるはずだ。ならば、これは、今生の別れになるかもしれない。
「メーアは、お前の父は、最後まで、それを願っていたのかのう……」
ぽつりと、エデルが言う。エデルは、父の最後を見てはいない。しかし、生前、何かを感じ取っていたのかもしれない。
「そうしなくては、俺のこれまではなんだったんでしょうか。 俺は、確かめたいのかもしれません。父達の、一族の願いが正当なものなのかどうかを」
その言葉は、嘘では無かった。カイの決意を感じたエデルは、それ以上は追究せず、最後に一言だけ言った。
「カイ、最後は己自身に問なさい。 自分自身がどうしたいのか、それは正しい事なのかを。 ……お前が、『復讐』とは別の何かを見つけてくれる事を、私は祈っているよ」
『象牙の塔』はお前を待っているから、と、言う、エデルの言葉に、カイは胸を詰まらせたが、決意を鈍らせまいと、空を見上げ、そのまま師匠に別れを告げると、一人、王都へ向けて旅立った。駆けていく人馬一対を、エデルは長く、長く見守っていた。
何度も、何度も。物心ついた頃から繰り返される父の言葉。
幼いカイにとって、世界は見たまま、あるがままにすぎなかった。しかし、父は違った。父にとって、暖かな日差しも、豊かな作物も無意味なものだった。己の居場所、あるべき場所は王都首座であると。
辺境の小さな村。さらにそのはずれにひっそりと住まう父と子。その毎日は幼いカイにとって苛酷だった。帝王学は言うに及ばず、語学、薬学、ひっそり生きる為には不釣り合いな多くの書物。剣術、馬術、体術。どれほど上手にそれをこなしても、父はそれを褒める事はなく、より高みへ、もっと、さらに。と、時にはムチや拳が見舞われた。カイが成長し、世界中をくまなく旅する日々になっても、それは変わらなかった。
父の望むままに、己を鍛え上げ、見聞を広げ、旅を終え、村に戻ったある日の事だった。父とカイ、二人だけの家に、一人の女がやってきた。最初、カイは、父が後添いを娶ったのだと考えた。父はまだ若く、母親を知らないカイにとって、もしかして自分にも温かい「家族」ができるのかもしれないと期待した。父とカイの関係は、親子というよりは師弟のそれであって、カイは父を恐れていたが、ぬくもりのようなものを感じた事がなかったからだ。
しかしそれは期待はずれだった。女は、父では直接教える事のできない、女の体を取り扱う為に呼ばれた娼婦だった。
王都に住まう国王には、息子がついに生まれなかった。長女がクラウンプリンセスとして、いずれ女王になるのだという。だから、知力と腕力だけでは足りないのだ。と、父が言った。
理性を失わず、溺れず、女を操る事ができるようにならなくてはならない。カイと娼婦と父親の、奇妙な特訓が始まった。「手本」として施される父の技に、娼婦が溺れてしまった。父に焦がれた娼婦は、父を愛し、狂った。
カイが、留守から戻ると、何度も何度も刺された父の血まみれの遺骸と、己で首を掻き切ったであろう、女の躯が折り重なって倒れていた。カイにとっては剣と体術の師であった父が、非力な女にやすやすと殺されるとは思えなかったが、どこか満足そうな死に顔に、もしや父も娼婦を愛していたのかもしれないと、カイは思った。
父が死に、もう、カイには、『王家への復讐』しか残っていなかった。他の生き方を学ばなかったのだ。
幸い、既にクラウンプリンセスの家庭教師として、宮廷に入る算段はついていた。
父と娼婦を共に弔った。母親に少し悪いような気もしたが、カイは母親の墓を知らない。恨むなら父を恨んで欲しいと思った。
今後二度と戻る事の無いであろう小さな家に火を放った。カイにはもう、帰るべき家も、家族も無いのだ。カイ自身は、王家に恨みは無い。このまま孤独に、一人で気ままに生きたとしても、誰も咎めはしないだろう。しかし、それでは、今までの自分の人生が無駄なものになってしまうような気がした。これは父からかけられた「呪い」それを成就させない限り、カイの人生は、終わるどころか始めることさえできない気がした。
「やはり、行くのかね」
象牙の塔の賢者エデルは、カイと父の数少ない知り合いだった。カイは、象牙の塔で、数多くの事を学んだ。エデルはカイにとって、父同様の師であった。
老賢者はカイを孫のようにかわいがってくれた。カイにとって、仮に家族があるとするなら、父ではなくエデルがそうだった。エデルは、カイに象牙の塔で学問を続け、追究する道を示してくれた。
「……父の、悲願でしたから」
もし、失敗したならば、カイの命はそこで終わるはずだ。ならば、これは、今生の別れになるかもしれない。
「メーアは、お前の父は、最後まで、それを願っていたのかのう……」
ぽつりと、エデルが言う。エデルは、父の最後を見てはいない。しかし、生前、何かを感じ取っていたのかもしれない。
「そうしなくては、俺のこれまではなんだったんでしょうか。 俺は、確かめたいのかもしれません。父達の、一族の願いが正当なものなのかどうかを」
その言葉は、嘘では無かった。カイの決意を感じたエデルは、それ以上は追究せず、最後に一言だけ言った。
「カイ、最後は己自身に問なさい。 自分自身がどうしたいのか、それは正しい事なのかを。 ……お前が、『復讐』とは別の何かを見つけてくれる事を、私は祈っているよ」
『象牙の塔』はお前を待っているから、と、言う、エデルの言葉に、カイは胸を詰まらせたが、決意を鈍らせまいと、空を見上げ、そのまま師匠に別れを告げると、一人、王都へ向けて旅立った。駆けていく人馬一対を、エデルは長く、長く見守っていた。