クラウンプリンセスの家庭教師
図書室 一瞬の邂逅
ベアトリクスはすでにうんざりしていた。母親主催の夜会は、表向きはクラウンプリンセスの気晴らしという名目のようだったが、トリスと複数の夫候補を一度に顔合わせさせる為のもので、次々と現れてはくだらない話をして立ち去っていく頭の軽そうな男の相手に辟易していた。
夫候補を並べるなら並べるで、他にいなかったのだろうかというほどに、貴族の子弟の会話には中身が無かった。
夜会の場で政治談義などは求めていないが、せめてもう少しトリスと趣味指向の合う話題を選ぶ事はできないのだろうか、と、思う。あるいはもう少しトリスが興味をもって聞くだけの話術は無いのかと。
一人は、自分がいかに有能であるかという事をひたすら並べ立てていた。それは別にかまわないが、己の有能さを誇示する為に、他の人間をこき下ろすもの言いが、どうにも受け入れがたかった。
一人は、自分がかつて交流した女性達を引き合いに出してトリスを褒めたたえた。歯の浮くような世辞にゾッとしたし、あまりにも趣味が悪い。
一人は、会話にならなかった。事あるごとにトリスの体に触れようとし、やけに耳元でひそひそと話そうとするのが本当にうっとおしかった。ふんだんにまぶされているであろう香水も、トリスの嫌悪感を誘った。
トリスとて、話術が巧みな性質では無いので、うまく話をひきだせなかったのかもしれない。
それでも、その時間は苦痛でしかなかった。冗長な商人の陳情の方が、中身をともなっている分、数百倍マシに思えた。
少し疲れてしまったので、と、トリスは逃げるように図書室へこもった。不作法なのはわかっていたが、十分義理は果たしたと思った。宴席では母がトリスに替わり、女王のように多数の男達を侍らせて、大騒ぎをしていた。取り巻く男達の中には、トリスに声をかけていた男もいたが、別に驚くには値しなかった。
紙とインクの匂いが、トリスの心を落ち着かせてくれる。饗宴から抜けだして一息つき、いつものように棚を確かめるように歩く。宮廷の図書室を整えたのは百年ほど前の女王だった。彼女も、夫である王に先立たれ、息子が成長するまでの中継ぎとして即位したのだ。いずれ即位するであろう息子の為に整えられた図書室。王は、見聞を広めなくてはいけないと、なぜ彼女は思ったのだろう。
薄い、絵本を手にとって広げる。休廷の図書室には不似合いなそれは、祖母が幼かった父の為に作らせた絵本だった。
世界中を旅する少年の本。宝物を探し、海を渡り、山を越え、国を作った王の話。色鮮やかな絵で描かれたその本が、トリスの子供の頃からのお気に入りだった。
もし、王族でなければ、この本のように世界中を旅してみたかった。目を閉じて、幼い頃に見た海を思い返す。即位すれば、外遊する機会もあるのだろうか。深呼吸をして、突然の物音に驚いて音のした方を見ると、見知った男が立っていた。
ガイナ・グリチーネ。母の兄の子で、トリスの従兄弟にあたる。子供の頃から、乱暴で、落ち着きの無い男だった。王女に対して一応の礼はとるものの、そもそも女という生き物を馬鹿にしているのか、国の実権を握っているのは王家ではなく自分の一族であるという自負がそうさせるのか、時折トリスに下卑た視線を浴びせるのだった。
服を来た下衆。と、内心トリスは思っている。ガイナの父や祖父は(かろうじてではあるが)、王族に対して一定の敬意を持っているように見える。心の奥底ではどう思っていても、それを表面に出すような愚はしない。しかしガイナは、甘やかされて育った為か、はたまた、何を勘違いしているのか、女王の伴侶最有力候補は自分であるかのうように振る舞っている。同じ空間で息をするのもイヤな奴に会ったなと、全身で不快を訴えているつもりだったが、どうやらガイナには通じていないようだった。
「めずらしい、君、字が読めたんだね。君には一生、縁のない場所だと思ったよ」
ガイナを一瞥し、すぐに視線を本に戻してトリスは言った。もう少し、相手の人格を否定して、絶句させるほどの嫌味を言ってみたいものだが、なかなかそういう物言いをするには場数が足りていなかった。
「君こそ、宴の席を抜けだして、どこへ行くかと思ったら……」
酒臭い息がかかりそうな距離まで近づいて、うやうやしく膝まずき、トリスの手をとって、芝居じみた言い方をした。
「戻りましょう? お姫様。 ダンスは苦手ですか? 俺がリードしますよ? 何でしたら、寝室ででも」
ガイナの唇がトリスの手にくちづけようとした刹那、あわててトリスが手をはらう。
「やめてくれないか、気色悪い、君にそんな事を許した覚えはない」
努めて冷静に、動揺を見せないように言ったつもりだったが、逆効果だったようだ。ガイナはあきらかに不機嫌そうな顔になり、トリスを壁に追い詰めて、両腕で逃げ道を奪った。下衆だろうと屑だろうと、軍籍にあるガイナに、力ではかなわない。二人だけになるような状況を上手に避けていたつもりだったが、トリスも少しイライラしていたようだ。ここからは冷静に対処しなくてはならない。
「……トリス、いつまでも子供のようでは困るなあ、君は伴侶を定めて、一刻も早く世継の王子を産まなくてはならないんじゃない?」
どいつもこいつも、世継世継と……。女王としてではなくて、私が必要なのは腹だけか……。と、うんざりする。
そうだね、でも、その相手は君ではありえない、絶対に! とでも言ってやりたかったが、相手を逆上させてつけこまれるのはまっぴらだった。
「……そうだね、ガイナ、……でも、私、まだ、男性に慣れていないんだ、あまり男性にそばに来られると、ドキドキしてしまって、うまく話をする事もできない」
少し息を止めて、無理に顔を赤らめて俯いて見せた。案の定、ガイナはニヤニヤと笑い、
「馬鹿だなあ、俺でもダメかな? 従姉妹殿。君が男に慣れたいというなら喜んでお相手しますよ?」
と、唇を寄せようとしたところで、トリスは身をかがめて、ガイナの両腕から身をはずし、一足飛びに数歩離れた。後は逃げるだけだ。体を固定せずに、行為に及ぼうとする思慮の浅い男で本当に助かった。腕でも取られていたら逃げ切れなかっただろう。
「ありがとう、でも、今は必要ないよ、お言葉通り、宴に戻るとしよう」
トリスは、そう言い捨てて、全力で走り出した。ドレスを身にまとっているとは思えないほどの俊敏さで。またたく間の出来事に、ガイナは呆然として、行き場を失った両手をふるわせていた。
そんな二人のやりとりを、息を殺して見ていた者がいた。クラウンプリンセスへの謁見を明日に控えた、カイだった。宮廷の図書室は広く、開放されていて、出入りは自由だった。象牙の塔には及ばないが、大量の本を前に、時間を忘れて読みふけっているところに、まずは女が現れた。彼女はカイに気づく様子も無く、慣れた様子で棚をめぐり、絵本を手にとって徒然に眺めているようだった。王女の為の宴が開かれているとは聞いていたが、まさか主賓の王女だとは思わず、どこかの貴族の令嬢が、時間つぶしにでも来たのかと思った。
女は、不美人ではなかったが、ドレスも質素で、どうかすると女官なのでは無いかというほどに地味だった。本が好きなのか、図書室の空気を吸うと、安心したようにしている様子に親近感がわき、邪魔をするまいと息を潜めていたところに、今度は男が現れた。
場の空気にそぐわない、酒臭い男。おそらくは宴から彼女を追いかけてきたであろう男の顔は知っていた。カイは、表面的には、象牙の塔より招聘された家庭教師の態をとっていたが、実は王妃の一族より密命を受けていた。王女を誘惑し、意のままに操る事。カイの裏の依頼主は、ガイナの父。現在は摂政の地位にある男だった。
おぼっちゃまが何の用だ……と、引き続き様子を伺っていると、ガイナは女に絡み始めた。しかも、やりとりを聞くにつれ、女の正体に気がついた。目の前の地味な女が、どうやらクラウンプリンセス、ベアトリクス・クリュザンテその人であるらしい。
宰相曰く、女だてらに学問に通じ、馬術や剣技の訓練も受けていると聞いていたので、もっと男まさりな女丈夫を想像していた。背は高いが、地味な容貌は、思っていたよりもずっと平凡で、ごくごく普通の女だった。しかし、中身は「普通」ではないようだった。
カイは、ガイナが王女に無体を働くようであれば、適当なところで姿を表し、牽制してやろうかと思っていた。しかし、それは杞憂だった。カイが思っているよりもずっとしなやかに、王女は身をかわして、男から逃げたのだった。カイは、王女に直接会うのが少し楽しみになってきた。
対面すると気まずい思いをするだろうと、カイはこっそりその図書室を後にした。
王女は中々聡明そうで、摂政が言うような傀儡にできるような人物には見えない。少し方法を考える必要がありそうだった。
夫候補を並べるなら並べるで、他にいなかったのだろうかというほどに、貴族の子弟の会話には中身が無かった。
夜会の場で政治談義などは求めていないが、せめてもう少しトリスと趣味指向の合う話題を選ぶ事はできないのだろうか、と、思う。あるいはもう少しトリスが興味をもって聞くだけの話術は無いのかと。
一人は、自分がいかに有能であるかという事をひたすら並べ立てていた。それは別にかまわないが、己の有能さを誇示する為に、他の人間をこき下ろすもの言いが、どうにも受け入れがたかった。
一人は、自分がかつて交流した女性達を引き合いに出してトリスを褒めたたえた。歯の浮くような世辞にゾッとしたし、あまりにも趣味が悪い。
一人は、会話にならなかった。事あるごとにトリスの体に触れようとし、やけに耳元でひそひそと話そうとするのが本当にうっとおしかった。ふんだんにまぶされているであろう香水も、トリスの嫌悪感を誘った。
トリスとて、話術が巧みな性質では無いので、うまく話をひきだせなかったのかもしれない。
それでも、その時間は苦痛でしかなかった。冗長な商人の陳情の方が、中身をともなっている分、数百倍マシに思えた。
少し疲れてしまったので、と、トリスは逃げるように図書室へこもった。不作法なのはわかっていたが、十分義理は果たしたと思った。宴席では母がトリスに替わり、女王のように多数の男達を侍らせて、大騒ぎをしていた。取り巻く男達の中には、トリスに声をかけていた男もいたが、別に驚くには値しなかった。
紙とインクの匂いが、トリスの心を落ち着かせてくれる。饗宴から抜けだして一息つき、いつものように棚を確かめるように歩く。宮廷の図書室を整えたのは百年ほど前の女王だった。彼女も、夫である王に先立たれ、息子が成長するまでの中継ぎとして即位したのだ。いずれ即位するであろう息子の為に整えられた図書室。王は、見聞を広めなくてはいけないと、なぜ彼女は思ったのだろう。
薄い、絵本を手にとって広げる。休廷の図書室には不似合いなそれは、祖母が幼かった父の為に作らせた絵本だった。
世界中を旅する少年の本。宝物を探し、海を渡り、山を越え、国を作った王の話。色鮮やかな絵で描かれたその本が、トリスの子供の頃からのお気に入りだった。
もし、王族でなければ、この本のように世界中を旅してみたかった。目を閉じて、幼い頃に見た海を思い返す。即位すれば、外遊する機会もあるのだろうか。深呼吸をして、突然の物音に驚いて音のした方を見ると、見知った男が立っていた。
ガイナ・グリチーネ。母の兄の子で、トリスの従兄弟にあたる。子供の頃から、乱暴で、落ち着きの無い男だった。王女に対して一応の礼はとるものの、そもそも女という生き物を馬鹿にしているのか、国の実権を握っているのは王家ではなく自分の一族であるという自負がそうさせるのか、時折トリスに下卑た視線を浴びせるのだった。
服を来た下衆。と、内心トリスは思っている。ガイナの父や祖父は(かろうじてではあるが)、王族に対して一定の敬意を持っているように見える。心の奥底ではどう思っていても、それを表面に出すような愚はしない。しかしガイナは、甘やかされて育った為か、はたまた、何を勘違いしているのか、女王の伴侶最有力候補は自分であるかのうように振る舞っている。同じ空間で息をするのもイヤな奴に会ったなと、全身で不快を訴えているつもりだったが、どうやらガイナには通じていないようだった。
「めずらしい、君、字が読めたんだね。君には一生、縁のない場所だと思ったよ」
ガイナを一瞥し、すぐに視線を本に戻してトリスは言った。もう少し、相手の人格を否定して、絶句させるほどの嫌味を言ってみたいものだが、なかなかそういう物言いをするには場数が足りていなかった。
「君こそ、宴の席を抜けだして、どこへ行くかと思ったら……」
酒臭い息がかかりそうな距離まで近づいて、うやうやしく膝まずき、トリスの手をとって、芝居じみた言い方をした。
「戻りましょう? お姫様。 ダンスは苦手ですか? 俺がリードしますよ? 何でしたら、寝室ででも」
ガイナの唇がトリスの手にくちづけようとした刹那、あわててトリスが手をはらう。
「やめてくれないか、気色悪い、君にそんな事を許した覚えはない」
努めて冷静に、動揺を見せないように言ったつもりだったが、逆効果だったようだ。ガイナはあきらかに不機嫌そうな顔になり、トリスを壁に追い詰めて、両腕で逃げ道を奪った。下衆だろうと屑だろうと、軍籍にあるガイナに、力ではかなわない。二人だけになるような状況を上手に避けていたつもりだったが、トリスも少しイライラしていたようだ。ここからは冷静に対処しなくてはならない。
「……トリス、いつまでも子供のようでは困るなあ、君は伴侶を定めて、一刻も早く世継の王子を産まなくてはならないんじゃない?」
どいつもこいつも、世継世継と……。女王としてではなくて、私が必要なのは腹だけか……。と、うんざりする。
そうだね、でも、その相手は君ではありえない、絶対に! とでも言ってやりたかったが、相手を逆上させてつけこまれるのはまっぴらだった。
「……そうだね、ガイナ、……でも、私、まだ、男性に慣れていないんだ、あまり男性にそばに来られると、ドキドキしてしまって、うまく話をする事もできない」
少し息を止めて、無理に顔を赤らめて俯いて見せた。案の定、ガイナはニヤニヤと笑い、
「馬鹿だなあ、俺でもダメかな? 従姉妹殿。君が男に慣れたいというなら喜んでお相手しますよ?」
と、唇を寄せようとしたところで、トリスは身をかがめて、ガイナの両腕から身をはずし、一足飛びに数歩離れた。後は逃げるだけだ。体を固定せずに、行為に及ぼうとする思慮の浅い男で本当に助かった。腕でも取られていたら逃げ切れなかっただろう。
「ありがとう、でも、今は必要ないよ、お言葉通り、宴に戻るとしよう」
トリスは、そう言い捨てて、全力で走り出した。ドレスを身にまとっているとは思えないほどの俊敏さで。またたく間の出来事に、ガイナは呆然として、行き場を失った両手をふるわせていた。
そんな二人のやりとりを、息を殺して見ていた者がいた。クラウンプリンセスへの謁見を明日に控えた、カイだった。宮廷の図書室は広く、開放されていて、出入りは自由だった。象牙の塔には及ばないが、大量の本を前に、時間を忘れて読みふけっているところに、まずは女が現れた。彼女はカイに気づく様子も無く、慣れた様子で棚をめぐり、絵本を手にとって徒然に眺めているようだった。王女の為の宴が開かれているとは聞いていたが、まさか主賓の王女だとは思わず、どこかの貴族の令嬢が、時間つぶしにでも来たのかと思った。
女は、不美人ではなかったが、ドレスも質素で、どうかすると女官なのでは無いかというほどに地味だった。本が好きなのか、図書室の空気を吸うと、安心したようにしている様子に親近感がわき、邪魔をするまいと息を潜めていたところに、今度は男が現れた。
場の空気にそぐわない、酒臭い男。おそらくは宴から彼女を追いかけてきたであろう男の顔は知っていた。カイは、表面的には、象牙の塔より招聘された家庭教師の態をとっていたが、実は王妃の一族より密命を受けていた。王女を誘惑し、意のままに操る事。カイの裏の依頼主は、ガイナの父。現在は摂政の地位にある男だった。
おぼっちゃまが何の用だ……と、引き続き様子を伺っていると、ガイナは女に絡み始めた。しかも、やりとりを聞くにつれ、女の正体に気がついた。目の前の地味な女が、どうやらクラウンプリンセス、ベアトリクス・クリュザンテその人であるらしい。
宰相曰く、女だてらに学問に通じ、馬術や剣技の訓練も受けていると聞いていたので、もっと男まさりな女丈夫を想像していた。背は高いが、地味な容貌は、思っていたよりもずっと平凡で、ごくごく普通の女だった。しかし、中身は「普通」ではないようだった。
カイは、ガイナが王女に無体を働くようであれば、適当なところで姿を表し、牽制してやろうかと思っていた。しかし、それは杞憂だった。カイが思っているよりもずっとしなやかに、王女は身をかわして、男から逃げたのだった。カイは、王女に直接会うのが少し楽しみになってきた。
対面すると気まずい思いをするだろうと、カイはこっそりその図書室を後にした。
王女は中々聡明そうで、摂政が言うような傀儡にできるような人物には見えない。少し方法を考える必要がありそうだった。