クラウンプリンセスの家庭教師
研鑽の日々
クラウンプリンセスの家庭教師になるべく、象牙の塔からやってきた男は、たいそうな美丈夫で、また腕もたつようだという噂は、またたく間に宮廷を駆け巡った。女官達はカイとの接点を持ちたがり、貴族の子女達も、宴に出ることはないのか、王女の共をする事は無いのかと詰めかけた。
これだけの美丈夫であれば、王女の寵愛を一心に浴びているものかと誰もが思った……。が。
「あなたの考えは相変わらず青臭い、そんな事では女王は務まりません」
「先生こそ、それは机上の空論です。広く世界を見てきてこれではあまりに情けないのではありませんか」
激しく口論をする様子を、王女の執務室近くを通る者達誰もが聞いていた。それはもう、毎日毎日。飽きる事なく。穏やかにやりとりする事も無いではないが、すぐに意見が対立し、互いに例を出し合っては、その場合はこう、その議論にはこんな穴があると、たいそう激しい舌戦になるのだった。
また、剣術においても、最初こそ、かつて王女の剣術師範であったヴァルターが仲裁に入っていたが、手練の二人双方から見舞われる反撃に、仲裁に入ることをやめてしまってからは、見ている者達が、息を呑むほどに、隙のない技の応酬、後、最後は体力のあるカイが勝つか、素早い動きを持ったトリスがわずかな隙をついて勝ちをとるとか、つまり互いが力尽きるまでにやりあう様子を見た人たちが、犬と猿、水と油と揶揄するほどに、相反する性質の持ち主なのだと納得した。
そんな二人ではあったが、王女は家庭教師の首をすげ替える事はしなかったし、家庭教師はいっそう指導に力がこもっているように見えた。
トリスは、充実した日々を送っていた。カイは頭の回転が早く、見聞も豊富で、トリスが予想もしなかったような答えが帰ってくる。最初こそ、自分は臣下で、などとうやうやしくしていたが、今では互いを力いっぱい振り回しても壊れないおもちゃのように、飽きる事無く渾身の力を込めて殴りあっていた。そうして、口論をしているうちに、自分の中で曖昧だった物事が、ぼんやりと、次第にはっきりと形になっていくのは本当に楽しく、こんな言い方をしては儀礼に反するか、などと考えなくてよいのはなにしろ楽だった。そういうやりとりを周囲に見せつける事で、トリスとカイは互いを嫌っていると思ってくれればなおよい。師弟とか、男女とか、そういった付き合いとは別の、素の自分で思うままに振る舞える楽しさに、日々心地よく疲れ、夜はとてもよく眠れた。何しろああでもないこうでもないと、自問自答する必要が無くなったのだから。トリスは感謝していた。カイをよこしてくれた象牙の塔のエデル師に。
しかし、時折胸の奥がチリと痛む。即位の後も、カイには側にいて欲しい。しかし、家庭教師に相応の地位を与え、側に置くことは、トリスの美意識に反した。カイに、そのような功名心や打算があるとは、今となっては思えなかったが、周囲はそうは思わないだろう。
相反する存在。だからこそ、カイを側に置いておきたいと、トリスは望んでいた。そして、その、一番簡単な方法にも気づいていたが、それについては考えないようにしていた。トリスは、生涯夫は持たないと心に決めていた。己に流れる血が、父のものとは異なる可能性が否定できない限り、自分の係累は残してはならない。幸いにして、巫女として聖堂に入った妹とは母親が違う。妹の母は、慎ましやかな女性だった。そして、父以上に病弱でもあった。彼女が、母のように父以外の男を通わせていたとは考えにくい。そもそも彼女は聖職者の家系だった。妹を還俗させて、後継に据える事。妹自身で無くても、後継者は妹の係累から選ぶ。それを変えるつもりはなかった。
カイも、充実した日々を送っていた。カイの中のあるべき王の姿はトリスそのものだった。誘導もいらない。父のしてきたことは無駄では無かったが、王家は自ら獅子身中の虫を生み出していた。カイが何かをしなくても、トリスによって、王家はあるべき姿に戻るのではないかと思われた。
聡明で、信念を持ちながらも、人の考えを理解しようとし、場合によっては、柔軟に己を改める事のできるトリスは、宮廷に巣食う旧弊を一層できるのではないかと、思った。カイの替りに。
……あるいは、二人共に。
トリスと議論する事、打てば響く受け答え、二人で過ごす時間は満ちたりていた。このまま、トリスを補佐し続ける事はかなわぬ夢だろうか。何の為に生きるのか、わからなくなっていた。父からの復讐という呪いの他に、すがるものが無かった。しかし、トリスと共にあり続ける事がもしできるのならば、カイの人生は鮮やかに意味を持つ。
トリスは慎重だった。できる限り、自分が女である事を、カイに感じさせないように努めていた。しかし、時折見せる仕草、声、白い喉。議論する彼女の真剣な眼差しが、互いに、我が意を得たり、と、心が通じているように感じる時に、隠そうとしても、見せまいとしても、女としてのトリスがかいま見える。かえってそれがカイの心を煽った。触れたいと思う。抱きしめたいと思う。父から指南された房中術は、復讐の手段だった。それ以外、カイは女性に触れた事は無い。しかし、本能で、カイはトリスを求めていた。
しかし、トリスがカイに対してそれを望んでいない事もわかっていた。彼女は、男を寄せ付けまいとしている。拒否している。自分の中の女性性を否定する事で、男性性も排除しようとしている。王者であろうとするがゆえに。
それが痛々しく、愛おしかった。だから、カイも感情を隠す。トリスがそれを望まない限り、カイも感情を出してはいけないと、己を戒めていた。
これだけの美丈夫であれば、王女の寵愛を一心に浴びているものかと誰もが思った……。が。
「あなたの考えは相変わらず青臭い、そんな事では女王は務まりません」
「先生こそ、それは机上の空論です。広く世界を見てきてこれではあまりに情けないのではありませんか」
激しく口論をする様子を、王女の執務室近くを通る者達誰もが聞いていた。それはもう、毎日毎日。飽きる事なく。穏やかにやりとりする事も無いではないが、すぐに意見が対立し、互いに例を出し合っては、その場合はこう、その議論にはこんな穴があると、たいそう激しい舌戦になるのだった。
また、剣術においても、最初こそ、かつて王女の剣術師範であったヴァルターが仲裁に入っていたが、手練の二人双方から見舞われる反撃に、仲裁に入ることをやめてしまってからは、見ている者達が、息を呑むほどに、隙のない技の応酬、後、最後は体力のあるカイが勝つか、素早い動きを持ったトリスがわずかな隙をついて勝ちをとるとか、つまり互いが力尽きるまでにやりあう様子を見た人たちが、犬と猿、水と油と揶揄するほどに、相反する性質の持ち主なのだと納得した。
そんな二人ではあったが、王女は家庭教師の首をすげ替える事はしなかったし、家庭教師はいっそう指導に力がこもっているように見えた。
トリスは、充実した日々を送っていた。カイは頭の回転が早く、見聞も豊富で、トリスが予想もしなかったような答えが帰ってくる。最初こそ、自分は臣下で、などとうやうやしくしていたが、今では互いを力いっぱい振り回しても壊れないおもちゃのように、飽きる事無く渾身の力を込めて殴りあっていた。そうして、口論をしているうちに、自分の中で曖昧だった物事が、ぼんやりと、次第にはっきりと形になっていくのは本当に楽しく、こんな言い方をしては儀礼に反するか、などと考えなくてよいのはなにしろ楽だった。そういうやりとりを周囲に見せつける事で、トリスとカイは互いを嫌っていると思ってくれればなおよい。師弟とか、男女とか、そういった付き合いとは別の、素の自分で思うままに振る舞える楽しさに、日々心地よく疲れ、夜はとてもよく眠れた。何しろああでもないこうでもないと、自問自答する必要が無くなったのだから。トリスは感謝していた。カイをよこしてくれた象牙の塔のエデル師に。
しかし、時折胸の奥がチリと痛む。即位の後も、カイには側にいて欲しい。しかし、家庭教師に相応の地位を与え、側に置くことは、トリスの美意識に反した。カイに、そのような功名心や打算があるとは、今となっては思えなかったが、周囲はそうは思わないだろう。
相反する存在。だからこそ、カイを側に置いておきたいと、トリスは望んでいた。そして、その、一番簡単な方法にも気づいていたが、それについては考えないようにしていた。トリスは、生涯夫は持たないと心に決めていた。己に流れる血が、父のものとは異なる可能性が否定できない限り、自分の係累は残してはならない。幸いにして、巫女として聖堂に入った妹とは母親が違う。妹の母は、慎ましやかな女性だった。そして、父以上に病弱でもあった。彼女が、母のように父以外の男を通わせていたとは考えにくい。そもそも彼女は聖職者の家系だった。妹を還俗させて、後継に据える事。妹自身で無くても、後継者は妹の係累から選ぶ。それを変えるつもりはなかった。
カイも、充実した日々を送っていた。カイの中のあるべき王の姿はトリスそのものだった。誘導もいらない。父のしてきたことは無駄では無かったが、王家は自ら獅子身中の虫を生み出していた。カイが何かをしなくても、トリスによって、王家はあるべき姿に戻るのではないかと思われた。
聡明で、信念を持ちながらも、人の考えを理解しようとし、場合によっては、柔軟に己を改める事のできるトリスは、宮廷に巣食う旧弊を一層できるのではないかと、思った。カイの替りに。
……あるいは、二人共に。
トリスと議論する事、打てば響く受け答え、二人で過ごす時間は満ちたりていた。このまま、トリスを補佐し続ける事はかなわぬ夢だろうか。何の為に生きるのか、わからなくなっていた。父からの復讐という呪いの他に、すがるものが無かった。しかし、トリスと共にあり続ける事がもしできるのならば、カイの人生は鮮やかに意味を持つ。
トリスは慎重だった。できる限り、自分が女である事を、カイに感じさせないように努めていた。しかし、時折見せる仕草、声、白い喉。議論する彼女の真剣な眼差しが、互いに、我が意を得たり、と、心が通じているように感じる時に、隠そうとしても、見せまいとしても、女としてのトリスがかいま見える。かえってそれがカイの心を煽った。触れたいと思う。抱きしめたいと思う。父から指南された房中術は、復讐の手段だった。それ以外、カイは女性に触れた事は無い。しかし、本能で、カイはトリスを求めていた。
しかし、トリスがカイに対してそれを望んでいない事もわかっていた。彼女は、男を寄せ付けまいとしている。拒否している。自分の中の女性性を否定する事で、男性性も排除しようとしている。王者であろうとするがゆえに。
それが痛々しく、愛おしかった。だから、カイも感情を隠す。トリスがそれを望まない限り、カイも感情を出してはいけないと、己を戒めていた。