この恋に、 ひとさじの 勇気を。
帰り道を2人で歩きながら、彼は今度行く学校について教えてくれた。今度は今の学校よりも進学校らしい。その上バスケ部も強いから楽しみなのだと彼は言った。
嬉々として語る彼を見ていると、苦しかった。4月から良平さんは、私が知らない良平さんになる。簡単には会えなくなる。
人が通るたびに、車や自転車が来るたびに、彼は私の肩を掴んで端へと促す。温かくて、大きな手のひらも私に追い打ちを掛けた。
「……じゃあ、帰るわ」
「……良平さん」
私の家まで遠いと言ったのに、すぐについた。もっといたい。離れたくない。
『お元気で』とか『今までありがとうございました』とか言うのが筋なのだろう。だけど、気がつけば私は、彼の服の袖を引っ張っていた。
「……真空」
「……いで」
「ん?」
「帰らないで」
自分が大胆なことを言っているのは百も承知だ。だけど、帰って欲しくなかった。もう少し、そばにいたかった。
「……真空。お前なぁ」
俯く私は彼の顔が見えないけれど、口調から困っているのが分かる。それでも、大人しく引きさがれなかった。
「帰っちゃ、やだ……」
瞳から溢れた雫が、彼の手のひらを濡らしたとき。
「……っ!」
大きな手が私の手首を掴んだ。玄関の中に押し入れられる。良平さんが後手でドアを閉める。驚いて顔を上げると、性急に唇を重ねられた。
「驚くなよ。煽ったんは、真空や」
そこから先は無我夢中で、あんまり覚えていない。多分、唇を重ねたまま、転がるように寝室へと向かった。
気がついたら、朝で、一糸まとわぬ私の隣で、彼もまた同じ姿で眠っていた。
記憶はハッキリとしている。決して、酔った勢いではないにしても、お酒が背中を押したのは確かだ。普段の私は、『帰らないで』なんていうほど、素直じゃない。
今、何時だろう。枕元に置かれた時計を見るために、少し身じろぎをすると、「ん……」と声がして、彼もゴソゴソとし始めた。
枕元のデジタル時計が示す時刻は6:28。ゆっくりと彼が瞳を開ける。最初は焦点が合わないのか、ぼんやりとしていたけれど、目の前にいるのが私だと気づくや否や、その顔が焦り始めた。
「……っ。真空」
「おはようございます。良平さん」
「……おはよう」
今、私達の間に漂う空気に名前をつけるなら『気まずい』なのだろう。当たり前だ。私達は恋人なんかじゃない。昨日まで同僚だった人と男女の関係を持ってしまった。
「……ごめん。真空。ごめん!」
後悔という感情が見て取れる良平さんに私の中にも後悔が広がる。
「こんなこと、するんやなかったな」
「こちらこそ、ごめんなさい……忘れましょう。事故ですよ、これは」
「真空……!」
「事故です」
そう、事故だ。もう忘れることにしよう。私は彼に背中を向けて、昨晩脱ぎ捨てた衣類を身につけた。
「真空……!」
「私、今日は休日出勤なんです」
咄嗟についた嘘だ。これ以上、良平さんと同じ空間にはいたくなかった。罪悪感のような後悔のような苦しい表情の彼を見たくなかった。
「……ごめん。帰る」
「すみません」
背後で彼が衣服を着る音がした。
「……ごめんな。真空」
最後にそう言い残して、彼は去っていった。