フェアリーテイルによく似た
▲初手 暗い部屋
肩より少しだけ長く伸びた髪を、無遠慮な手が撫でる。
「神永さん。髪、伸びたね」
パソコンのディスプレイから目を離さないまま頭を傾けて、玉城さんの長い指から逃れた。
「無精しているだけです」
「そうなの? 俺は長い方が好きだけど」
「そのうち切ります」
視線を一度も向けなかったのに、私とパソコンの間に勝手に割り込んで、無理矢理視界に入ってくる。
「もうそろそろいいんじゃない? 彼氏、出て行ったきり帰って来ないんでしょ?」
否定も肯定もできず、強制的に合わされた目をただ見つめるしかない。
「一年も待ったんだしさ。いつまでも過去に囚われてないで、新しい恋をしてもいい頃だと思うよ」
一年という時間は、やっぱり『も』と言われるほど長いのだろうか。
私の恋はもう過去なのだろうか。
「全部、私が決めますから」
目を逸らさないまま言い切ったら、玉城さんがふっと笑った。
「じゃあ、俺に決めてね」
そう言ってもう一度私の髪に触れてから、やっと帰ってくれた。
玉城さんが変なことを言うものだから、結局進まなくなってしまった仕事を放り出して自宅に帰る。
エレベーターのない四階建てアパートの四階。
四階程度だとエレベーターの設置義務がないのか、それとも単に古いせいなのか、とにかくひたすら階段を上る。
私の職場から近くて、しかも将棋会館まで乗り換えなしで行ける好条件なのに家賃が安いのだから、このくらいは仕方ない。
「ただいま」
返事がないのも、部屋が真っ暗なのも、もうずっと同じ。
ずっと同じなのに、ずっと慣れない。
毎日通りから部屋を見上げて「今日こそ電気がついているんじゃないか」と期待しては裏切られ、部屋が真っ暗でも「『ただいま』って声をかければ、返事があるんじゃないか」と期待して裏切られ、返事がなくても「寝ているのかもしれない」という期待をして、それも電気をつけた瞬間に砕かれた。
朝慌てて倒してしまったコスメボックスの中身がそのまま散らばっていて、溜息をつきながらボンボンと適当に戻していると、妹の朝陽から電話がかかってきた。
『もしもし、お姉ちゃん? 元気?』
「うん、元気だよ」
『今年のゴールデンウィークは帰って来られそう?』
「うーん、まだわからない」
『お姉ちゃん、もうずっと帰って来てないよ。電話だって全然くれないしさ』
「うん、ごめん」
適当な相槌を打ちながらカーテンを閉めようとして、一度目の前の通りに視線を落とした。
街灯の灯りに浮かぶのは、人ひとりいないアスファルト。
『千沙乃ーーーっ! 千ー沙ー乃ーーっ!』
あの通りから何度呼ばれたことだろう。
私が顔を出すまで呼び続けるものだから、たびたびご近所からクレームを受けたっけ。
真夜中にあんな大声出されたら、迷惑がられるのも無理はない。
だけど、私はそのクレームを一度も元輝に伝えなかった。
ひとりで戦って、ひとりで苦しんでいた元輝が、唯一感情を爆発させるのが、あの呼び声だったからだ。