フェアリーテイルによく似た
眠れないまま夜を明かして、翌朝はひどい顔にファンデーションを塗りたくり、朝食もとらずに出勤した。
けれど、あの日私の記憶はほとんどない。
何度も電話をかけながらの帰り道、暗がりのゴミ捨て場に将棋盤と駒箱があることに気づいた。
いつも願いを込めるようにきちんと置かれていた将棋盤は、見たことない角度に倒されて雑に投げ捨てられていた。
『明日はゴミの日じゃないし。大体、指定の袋に入れないと持って行ってくれないよ』
重い脚付きの盤を四階まで運び上げ、クローゼットの下段に置くと、すっと馴染んだ。
やっぱりこの盤の居場所はここだ。
労うように表面を撫でると、漆で引かれた線のポコポコとした感触がする。
元輝は負けたんだな。
ようやくそれだけがはっきりと理解できた。
元輝は負けて、プロにはなれなかったのだ。
三段リーグは指し分け以上(10勝以上)で残留できるけれど、それも叶わなかったのだ。
涙は出なかった。
本人がいなくて、私が泣いていいものなのか、そうするべきことなのか、よくわからなくて。
実感は一年経った今でも湧いていない。
元輝が姿を消した翌日から、兄弟弟子や棋士仲間、また師匠からもたびたび連絡があった。
どうやら彼は知人宅を転々としているらしい。
そして果ては、ほとんどない貯金を全部持って海外を放浪しに行ったそうだ。
勝つと大喜びする元輝だけど、負けたからって私にぶつけるようなことはなく、ただ「ごめん」とひとりになりたがった。
今回もそうなのだろう。
私のところに帰って来ないことを悲しいとは思わない。
彼の抱える絶望を、私が軽くしてあげることはできないから。
今はひとりでもがくしかないことだった。
きっと元輝は、見たこともない広い世界で必死にもがいて、人生に明かりを灯す一手を探しているのだろう。
私をひとり置き去りにしても、それは彼の私への愛情とは全然別の話だ。
泣いているだろうか、という心配はしない。
むしろちゃんと泣けているだろうか、と心配だった。
そして、泣き切れるだろうか、と。
『この前歓迎会があって、一応二次会の最後までお付き合いしたんだよ』
「うん」
朝陽の声が耳をすり抜ける。
雨と春埃によってできた茶色いラインが、涙の筋のように窓ガラスを幾重にも汚していた。
内側から指でこすっても、当然きれいにはならない。
『それで帰ったら、おじちゃんがメチャクチャ不機嫌なの! でも断れないでしょ? 新入社員なんだからさ!』
「うん」
奨励会は誰でも入れるところじゃない。
大人を手玉に取るような天才小学生や神童が全国から百人受験したとして、合格者は三十人以下。
そして三段に上がれるのはわずか四人程度。
四段になれるのは二人ほどという割合。
三段にまでなれた元輝は確かに天才だったのだ。
将棋指導のアルバイトや記録係の仕事で微々たる収入はあったものの、友人から「ヒモみたいな彼氏」と揶揄されるほど頼りないものだった。
けれど毎日毎日、十時間以上将棋盤とパソコンに向かってひたすら勉強する姿を見て、その必死さに触れると、「バイトの時間増やしたら?」なんてとても言えない。
「どこかに連れて行って欲しい」という気持ちも浮かんで来ない。
盤に向かう姿は年々重く厳しいものになっていき、誕生日さえ祝わなくなった。
一緒に住んでいても一緒の時間を過ごすことも減った。
人生すべてをなげうって十年以上。
その重みは増えても、叶う見込みが増えることはない。
この地獄は、果てまで行き切る以外終われないとわかっていた。