フェアリーテイルによく似た
▲3手 灯りに佇む人
玉城さんにはああ言ったけど、まだ当分切るつもりはない。
元輝は私の髪が好きで、よく「いい髪だよね」と耳の下で切り揃えられ、くるんと内巻きになった髪をそのラインに沿ってツルンと撫でた。
ことあるごとに撫でるから、私はその子どもっぽい髪型を変えられなくて、マメに美容院に通っていた。
髪が伸びたのは、元輝がいなくなって髪型をキープする必要がなくなったから。
それから、元輝の手の名残が消えてしまうようで、切れなかったから。
外は暗く、窓ガラスは鏡のようになって疲れた私の姿を映している。
髪は、今朝しっかりブローしたのに、ところどころ跳ねていた。
こうしているうちに、いつかこの窓からあの通りに届くくらい長くなるかもしれない。
そう考えながらまた視線を落とすと、街灯の灯りから外れたところに人影が見えた。
『それでおじちゃんが━━━━━』
「ごめん、朝陽! かけ直す!」
コンタクトを入れていても視力の悪い私には、顔なんて確認できない。
それなのに、考えるより早く携帯を放り投げ、部屋を飛び出していた。
自分の足の遅さがもどかしい。
ガツガツと大きく響くヒールの音は近所迷惑だけど、今は構っていられなかった。
例えエレベーターがあっても、どっちにしろのんびり待っている余裕はなかったと思う。
外に飛び出すと、だいぶ鋭さのなくなった夜風が、髪の毛を散らした。
家々には電気が灯っているけれど、遮光カーテンが多いせいなのか通りまで漏れて来ない。
目指す人影は幻ではなく、街灯が作り出す円の外側に確かに立っていた。
フラフラの脚でまろびながら、衝突するように掴みかかり、胸ぐらを締め上げる。
何も言葉が出て来ない。
はあはあと切れる息だけが通りに響いている。
言いたいことも、言うべきこともたくさんあるのだろう。
けれど今はどれも無意味だった。
逃がさないように、責めるように、すがるように、服を握りしめた手だけに力がこもる。
そんな私を見下ろして、元輝は目を細めた。
「千沙乃。髪、伸びたね」
元輝のわずかに震える手が、髪のラインをツルンと撫でた。
その瞬間、見開いたままの私の目からボタッと涙が落ちた。
ボタリ、ボタリ。
胸が詰まって出てこない言葉の代わりに涙が溢れる。
元輝は私を引き寄せて強く抱き締めてくれたけれど、それでも掴んだ服は離せなかった。
この一年は穏やかすぎるほどに穏やかだった。
「同棲していた彼氏が失踪した」ってことも、飲み会の席の笑い話にさえしてきた。
けれど、それは決して凪いでいたわけではなかったのだ。
心が堅く固まっていただけだった。
元輝が戻ってきてようやく私の心は動き出した。
ずっとずっと泣きたかった。
元輝がプロになれなかったことが悲しくて。
何もできない自分が悔しくて。
一言の連絡もなく消えたことが腹立たしくて。
それでもどこかで元気にしていることに安心して。
だけど泣くことさえできないほど、本当は寂しかった。
今は自分が怒っているのか喜んでいるのかさえわからないまま、涙だけが落ちる。
たったひとつわかることは、もう悲しくも寂しくもないということ。