フェアリーテイルによく似た
掌に乗せた350円を渡せずにいる私に、彼は不思議な顔をして待っている。
踏み出そう。
「350円とレシートのお返しです。それから、あの」
せめて、一歩だけでも。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
彼は驚いたりせず、緊張を孕んだ静かな声で聞いた。
「理由を教えてください。もう少し、わかりやすく」
ああ、大体のことは伝わってしまったんだな。
そうだよね、お互いに大人だから。
だけど、なんとなくの告白をなんとなく遠ざけることをしない。
真正面から向き合うことを求められた。
「もっと親しくお話したいんです。あなたのことを何も知らないただの店員に好かれても、迷惑でしょうけど」
じわっと涙が浮かんだ目を細めて、精一杯の笑顔を向けた。
すると、秋の陽光を背に受けて、ほとんどシルエットに見える彼の表情が突然くだけた。
「はあー、よかったー」
彼はカウンターに手をついて、崩れそうな身体を支えている。
深く頭を下げたせいで、今まで彼によって遮られていた日差しが急にぶつかってきた。
「え? あの……。え?」
「莉亜さんは、自分のことを何も知らない人から好かれても、嫌ではないんでしょう?」
彼はポケットからペンを取り出し、レシートの裏側にサラサラと何か書き付けた。
「俺の名前です。ちなみに『ゆうき』と読みます」
「……嘘!」
やわらかく芯のある美麗な字で書かれたそれは『古瀬有紀』。
「なんとなく、女性に間違われてるのかなー、とは思ってました。ずっと名乗り出る勇気が出せなくて」
勝手な思い込みで、字がきれいなのは女の人だと思っていた。
確かにハッキリ性別を確認したことはない。
カクン、と脚の力が抜けて床にへたりこんでしまった。
「莉亜さん!」
有紀さんはカウンターを回り込んで、私を支えるように掴んだ。
至近距離で覗き込む目は、身体も心も逃げることを許さない。
「俺の名前は教えました。それで、莉亜さんの気持ちは?」
「全部わかってるくせに」
「ちゃんと聞きたいんです」
ズルい。私にばっかりズルい。
「有紀さんが好きです」
初めて声に出した名前は『ゆうき』と発音した。
「最初から全部知ってたんでしょう?」
「いや、莉亜さんが誰を好きなのか、なんてわかりませんでした。だから俺も勇気が必要だった。莉亜さんの背中を押して、相手が自分じゃない危険性もあったから」
私を包み込む身体からは、たくさんのハーブの香りがする。
けれど店の香りとは違う。
もっと濃厚で香ばしい、有紀さんの匂い。
「今度からは筆談じゃなくて、何でも俺に直接聞いてください」
有紀さんの作るハーブの中に、危険な効能を持ったものでもあるのだろうか。
脳に響く言葉と有紀さんの香りは、私を完全に狂わせる。
「何でも直接聞いて」というから、その通り唇に直接聞くと一瞬だけ驚いて、けれど驚くほど強い想いを返してくれた。
まだ辛うじて残っていた朝の空気を打ち消すほどの、明けない夜のような深いキス。
マロウブルーティーは気管支にも効くはずなのに、呼吸も心臓もずっと苦しい。
何も知らない、空っぽだった私の両手は、すぐに全身有紀さんでいっぱいになった。