鎌倉ごちそう迷路

 ――ああ、今日はなんて一日だったんだろう。

 記念すべき無職一日目。
 イヤな夢で目が覚めて、電話にモヤモヤして、トンビにイライラして。でも、それまでのマイナスが帳消しになるくらい、素敵な人たちに出逢えた。

「さあ、できた」

 マスターの言葉とともに、コーヒーをなみなみついだカップが出てきた。
 ソーサーの端には、鳥の形をした干菓子が一粒。

「……かわいい」

 指先でそっとつまんで、目の高さまで持ちあげてみる。青と緑がまざったような、パステルカラーの甘い小鳥だ。
「鳩かな?」
 鎌倉で鳥といったら、やっぱり鳩が定番だし。
 私がそう推理すると、カウンターの中でマスターがほほえみながら首を横に振った。
「メーテルリンクの青い鳥。幸せってのは、けっこう近場にあるもんだ」
「青い鳥か……」
 幸福の象徴、ブルーバード。幼い兄妹がいろんな場所へ探しに行くけれど、どうしても見つからない幻の青い鳥。でも兄妹はあとで気づくのだ。自宅の鳥かごには最初から、その鳥がずっといたってことを。

「ほんとですね。私、迷いすぎてたのかも……」

 気持ちひとつで、世界はこんなにも変わる。
 みんなが普通にやれていることが自分だけできなくて、置いてきぼりを食らったような気分になっていた。進む道がわからなくなって、迷子になったと思い込んでいたけれど、そうじゃなかった。
 思いどおりにいかなくて、すねて立ち止まっていたのは私のほう。イヤなことから目をそむけて、逃げようとばかりしていた……。

「私、ちゃんと連絡してみようと思います。まずは、会社を辞めるときにダシにしちゃった学生時代の友だちに」
 自分に言い聞かせるみたいに、私は宣言した。
「ああ、さっき話してた人? 料理人の修行してるっていう」
 鎌倉さんに言われて、「はい」と神妙にうなずく。
「もう、共同経営者なんてカッコいいこと、言うつもりはありません。でもこのお店に来て、うらやましくなりました」
「うらやましい?」
 マスターが、面白そうに訊き返してくる。これにも私は「はい」とうなずいた。
「私も、お店づくりに関わりたい。友だちの開店準備を本気で手伝いたくなったんです。……いや、具体的に何ができるのかもわからないし、そもそも彼女が私を関わらせてくれるかどうかすら、まだわからないんですけど……。でも、何かしたい。だから彼女にちゃんと連絡をとってみようと思って」

 友だちを退職の言い訳に使ったことに、ずっと罪悪感があった。連絡をとらなかったのは、自分の嘘が後ろめたかったからだ。
 でも今なら、言えるかもしれない。

 ――久しぶり。元気だった? 実は私ね、退職したんだ。そう、卒業してからずっと働いてたデザインの会社。それで……あのさ、風の噂で聞いたんだけど……もしあかねがお店をやるなら、私に手伝えることはないかな?

 そう伝えて断られたなら、それでいい。もちろん手伝えることがあったら、それが最高なんだけれど。

「いいじゃないか、楽しそうだ。お友だちも喜ぶんじゃないの?」
 マスターの前向きなコメントに、鎌倉さんも小さく「そうだな」と同意してくれた。
 形のいい唇でコーヒーの湯気をそっと吹きながら、鎌倉さんはびっくりするほど優しいまなざしで私を見た。
「正義のヒーロー、なれるかもな。……いや、あんたの場合はヒロインか?」
 自分の言い回しにわずかに照れて笑いながら、鎌倉さんはひょいと片目をつぶってみせた。こういう仕草が絵になってしまうんだから、つくづくイケメンはお得だ。

 ――あれ? もしかして、正義のヒーローってフレーズ、気に入ってもらえてる……?

 なんだか急に、鎌倉さんがかわいらしく思えてきた。
 この人、いったい何歳なんだろう。すごく大人っぽかったり、ときどき少年のようだったりして、そのたびに印象が変わる。男の人って不思議だ。
「鎌倉さんって、なんか、かわいいですよね」
 思いついたまま口にすると、隣で鎌倉さんが盛大にコーヒーにむせた。マスターはそれを見て、肩をふるわせて笑いをこらえている。
「いや、正解。潤ちゃん、この短時間でよく倉頼の本質を見破ったね」
「なんだよ、その本質って!」
 ムキになる鎌倉さんは、やっぱりちょっとかわいい。

 カウンター席から後ろを振り返ると、表の道路に面したすりガラスの扉に、午後の明るい陽射しが当たっていた。ガラスごしに差しこんでくる光の帯は、まるですべり台のように扉から床板へと繋がっている。

 決めた。今夜にでも電話をしよう。まずは安田あかねに。それから沙紀と、母親にも。

 ――仕事、やめたよ。これからちゃんと、やりたいことを見つけるために。

 堂々と顔をあげて、そう言える自分でいたいから。

 迷うことなんてなかった。進むべき道はあったんだ。いつも私のそばに。

 久しぶりにわくわくした気分になって、私は自分のコーヒーカップに口をつけた。
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