徹生の部屋
コーヒーを三人分、キッチンの片隅でみつけたワゴンに乗せて応接間へと運ぶ。気分はまさにメイドさん。

残念ながら、お茶請けにできそうなお菓子はないけれど。

ノックして徹生さんの応答を待っていたら、ひとりでに扉が開いたので驚いた。
向かい合って座る徹生さんと彼女。あれ、運転手の人は? と思ったら、ドアを開けてくれたのはその彼だった。

「ありがとうございます」

私のお礼に穏やかな笑みで応えたその人は、静かに扉を閉めると、イスには座らずに女性の後方に控えて立つ。ふたりも、彼に着席を勧めようとしない。

これって、アレ? 秘書とか執事とか、その類いの人?

不審に思いつつ、コーヒーをふたりの前に並べる。せっかく淹れたのだからと、片隅にもう一客も置いた。

「新しい家政婦の方?」

立ち去ろうとする私に、彼女がその見た目通りの凜と通る声をかける。

「え? いえ、私は……」

なんと説明すればいいのだろう。
もちろんお手伝いさんではないし、彼の秘書でもない。
顧客と店員? でも、どうしてこの場にいるのかを理解してもらうにはそれなりの時間が必要となるし、桜王寺家のプライバシーにも関わる。

「徹生。ちゃんと伝えておいてちょうだい。私にはコーヒーでなく紅茶だと」

言い淀んでいるうちに、さっさと矛先を徹生さんに転換する。

「すみません、淹れ直してきます」

カップを下げようとした私の手を、徹生さんが制して小さく首を振った。

「寿美礼、楓はこの家の使用人ではない。これは厚意で用意してくれたものだ。失礼なことを言うな」

徹生さんの厳しい口調に、再びこちらに向けられた彼女――寿美礼さんの視線は、私を値踏みするように上下する。蛇に睨まれた蛙のように立ち尽くす私に、ふうん、と小さく頷くと、細い人差し指を鋭角的な顎先に添えて艶やかに口角を上げた。

「楓さんとおっしゃるの? では、あなたが例の噂の人というわけね」

「噂?」

思い当たるようなものがなくて戸惑う。
いまだに正体はわからないけれど、きっとこの寿美礼さんも徹生さんと同じ、私とは住む世界の異なる人だろう。

「ご存じないの? 町では桜王寺家の嫡男が、だらしなく鼻の下を伸ばして、若い女性を連れ回しているという噂で持ち切りなのよ」

「なんでそんなことに……」

徹生さんといっしょにこの辺りを歩いたのなんて、買い物に行ったときくらいだ。それが噂になるなんて、ずいぶんと狭い世間なのか、それとも『桜王寺』の名がそうさせたのか。

どちらにしても、誤解曲解されて広まっているに決まっている。

< 49 / 87 >

この作品をシェア

pagetop