徹生の部屋
来賓席のあるスペースを抜けると、やっと徹生さんの足取りが緩やかになる。
ずっと私の腰にあった腕も離れていった。

そのまま花火会場の出口に向かおうとする彼の袂を掴んだ。周囲の騒音に負けないよう、立ち止まった彼の耳に背伸びして口を近づけ声を張る。

「結婚っていったい、どういうことですか?」

当然の私の問いに、彼は「ああ」と気の抜けた返事をし、面倒くさそうに口を開こうとした。

「徹生っ!」

雑踏の中から彼を呼ぶ声が届き、スーツで走ってきたせいだろう、額に大汗をかいた楢橋さんが現れた。

「帰るのか? 送って……」

「必要ない」

息を切らしてまで追いかけてきてくれた楢橋さんを、徹生さんはすげなく追い返そうとする。

「いま、おまえが話をしなければいけないのは、俺じゃないだろう?」

徹生さんの言葉に、楢橋さんはハッと息を呑む。だけど、すぐに唇を噛み締め俯いてしまった。

「いまの僕になにができる。なにも持っていない僕に、あの人を――寿美礼を幸せになんてできるはずがないよ」

強く握られた拳が震えているのが傍目にもわかる。
やっぱり楢橋さんは、寿美礼さんのことが好きなんだ。

「本当に基紀にはなにもないのか?」

「あるわけないじゃないか。なんでも手に入る徹生には、わからないだろうけど!」

胸倉に掴みかからんばかりで迫った楢橋さんにも動じず、徹生さんはとっても大事なものをみるような笑みを浮かべた。

「持っているだろう? 寿美礼を大切に思う気持ちを。誰よりも大きなものを」

ポカン。楢橋さんは、そんな音まで聴こえそうなくらいに間抜けな表情になる。
眼鏡の奥の細い目が、ウロコどころか目玉ごと零れ落ちそうに見開かれた。

「それとも、俺があのじゃじゃ馬に乗るのを、指を咥えて見る変態な趣味があるのか?」

ニイっと吊り上がる左側の口角は、心の底からイジワルで。

ポスン、と徹生さんみぞおちに、楢橋さんのパンチがお見舞いされる。少し高い位置にある徹生さんの顔を不敵に見据えた彼は、昼間、穏やかに微笑んでいた人物と同一には見えなかった。

「徹生には無理だよ。あの気難しい暴れ馬は、僕じゃないと乗りこなせない」

「庄一おじさんはともかく、桃子叔母さんは手強いぞ」

「いまさら、たったひとつ以外、失って困るものはないからね。精一杯ぶつかるまでさ。健闘を祈っていてくれ」

そう言った彼の瞳は、全然負ける気などない、と強い力を湛えていた。





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