花の刹那


「何をしておる。軍議の最中であるぞ。はよう稽古に戻りなさい」

父親のたしなめる声にも耳を貸さず、香はどっしりと腰を降ろしたままである。
中庭では、一緒に稽古をしていた兄・鷹成や、他の子どもたちが、その様子をハラハラと見守っている。

「香、聞こえぬのか。戻りなさい」
「お言葉ですが、父上。稽古は、心を静めてやるものにございます。しかし、我らはまだまだ未熟者。広間がかように騒がしくては、集中して稽古に打ち込めませぬ」

香は、九つとは思えぬほど、はきはきと反論した。

「し、しかしな…」

とたじろぐ父を尻目に、香は正嗣の方に向き直った。

「宗次郎、一つ良いか」
「はっ」
「その人質とやら、どうしても母上でなければならぬのか?」
「いえ、決してそういうわけでは…ないのですが」
「要するに、佐野のお家から、女子をひとり差し出せばよいのだろう?母上が嫌と仰るのなら、私が行けばよいだけではないか。違うか、宗次郎?」
「は、いやしかし…理屈の上ではそうなりますが…」
「では決まり。私が人質に参りましょう」
「ちょちょ、ちょっと!待ちなさい、香!」
「何です?母上」
「そのようなこと、認めるわけには行きません!」
「しかし、誰かが行かねばならぬのです。それが私であってはいけない道理など、ないはずです」
「…お前が質にされるくらいなら、母が参ります」

途端、おぉ〜、という感心の声が広間を包んだ。

「亜弥…!よう言うてくれた!」
「っ違いまする!旦那様のためでも、ましてや宗次郎のために行くわけでもありませんからね!香が危ない目に遭うのは御免だということにございますっ」
「母上〜、素直になられませ」
「だから香のためと言うておろう!」
「ふふ、ありがとうございます、母上」
「…親が子を思うなど、当然のこと。それよりお前は、軽々しく質になるなどと言うてはなりませぬ。良いですか!」
「は、はい、反省致します」

家臣たちは、そんな親子の会話を微笑ましげに見ていた。
と、正嗣が咳払いをし、

「では、北条への人質の件は、御方様が参られるということで」

と纏めた。

「御屋形様、然様つかまつろうと存じますが、よろしゅうございますな」
「うむ。それでは、北条へはそのように書状を出そう」
「いえ、それには及びませぬ」
「ん?」
「実は、本日付で、それがし、北条の目付に相成り申した」
『!?』

広間がにわかに騒然とした。

目付とは、主家からの下知(命令)を伝え、その下知が守られているかどうかを見張る、言わば監視のような役職のことである。
よって本来目付とは、主家直属、つまりは北条直属の家臣がつとめるべきなのだ。
それを、その家の家臣に任せるというのは、ほとんど例外的なことと言える。
いや、もっと端的な言い方をするのならば、目付を任されるということは、主家直属の家来として認められたということになる。

そういった次第で、広間の騒ぎは、徐々に大きくなっていった。

しかし、そのような事情、まだ幼い香には分からない。
蜂の巣をつついたような騒ぎの中、きょとんとした顔で、周りを見回すことしか出来なかった。

広間に集まっていた家臣たちは、口々に正嗣に言い募った。

「桐谷殿、それは如何なることか!」
「そうじゃ、何がどうなれば貴殿が目付になどという話になるのだ!」
「まさか…北条に金でも出したか!」
「佐野を見限るつもりか!」

次第に、周りの言葉が厳しいものになっていく。それでも、正嗣は顔色一つ変えない。

「みな、静かに!そうと決まったわけではあるまい、宗次郎の話をよう聞け!」

と頼成が制するも、20人近い家臣たちの大声に、無情にも掻き消されていく。

「前々から思うておったが…桐谷なら裏切りかねんわ!」
「確かに、佐野を一番恨んでおるのは、桐谷殿、お主であろう!」
「跡継ぎ争いの時に負けたのを、根に持っているのであろうなあ!」
「御屋形様からの恩を、仇で返すつもりか!」
「ーーー!」
「ーーーーー!!」
「ーー!」
「ーー…」






「喧しいッッ!!」






しん…

当主の声に、広間は静まり返った。

頼成が声を荒らげることなど、滅多にないことである。

「…みな、静かにせよ。宗次郎の話をよう聞け。騒ぐのは、それからでも遅うない」

いつもの穏やかな態度に戻り、頼成は正嗣に呼びかけた。

「すまんな、宗次郎。続けてくれ」
「…かように騒がしくなるようでは、これ以
上話しても、無意味でございましょう」
「然様なことを申すな。儂も含め、みな、何故お主が目付になったのか知らぬ。それゆえ誤解しておる者もおる。誤解を解かぬのは、嘘をついておるのと同じじゃぞ」

正嗣は、「…御屋形様が仰るのならば、」と口を開いた。

「つい今朝方、使者が参った時に申し付けられたのです。北条からの書状は、いつもそれがしが受け取っておりましたゆえ、顔を覚えられたのでしょう」
「なにゆえ顔を覚えられただけで、目付に、などという話になるのじゃ?」
「さあ…そこまではそれがしも存じませぬ。まあ大方、北条も人が足りんのでしょう」
「そうか…」

今度は、騒ぎこそ起きなかったものの、みな、満足のいかない答えに、不服そうな顔をしている。
何より、そうか、などと言っておきながら、頼成自身、どこか納得のいかないような、すっきりしない感覚を覚えた。
広間全体の微妙な雰囲気は、幼い香でさえ感じ取れるほど、あからさまなものだった。

「…ま、まあ、そういうことらしい。みな、桐谷が裏切ったなどという物騒なことは、金輪際、口にせぬように。わかったな?」
『はっ』
「では、今日はこれにて終わりにしよう。苦労であった」



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