花の刹那



「いやーーー……紙一重でありましたなー」
「いや……そうか…?俺は相当痛手を負ったんだが…痛った!!馬鹿、触るな」


満面の笑みを浮かべる妹に対し、苦々しい顔で痣を摩る兄。
16歳の兄と9歳の妹の木刀での一本勝負は、妹の勝利で幕を閉じたわけである。


「やはりお前は剣の才があるのだな…」
「いえいえそんな私など…いやあそんな…そんな……そうですね」
「認めるのか…」
「いえいえそんな。それに、私が強いというよりは、兄上が武芸が得手でないというだけの話なのではないですか?」
「いや…それにしても、なあ…妹に負けるというのは、なかなか凹むぞ…」


がっくりと項垂れる兄を見て、香はくすくすと笑った。


「ところで兄上、一つどうしても分からぬことがあるのですが」
「ん?何だ、兵法のことか?」
「あ、いえ、そっちではなく。先ほど、広間で、宗次郎がやたらと怒られておりましたが…そもそも目付とは何なのですか?」
「ああ、そのことか。目付と言うはな、主家からのお下知が守られているか、監視する役の者のことだ」
「ふうん……それで宗次郎がその目付になることの、何がまずいのですか?」
「うーん…そうだな、では、父上が俺に、一日千回素振りをせよとお命じになったとしよう」
「せ、千回…地獄じゃ…」
「まあそこは良いから。…しかし、お前の言うように、素振り千回はなかなか厳しい。俺がきちんと言いつけを守るかどうか分かるまい」
「確かに」
「かと言って、父上が逐一見張るわけにもいかぬ。そこでだ。お前に俺の見張りを任せるのだ」
「ああ、なるほど!そうすれば手間が省けますね」
「そうだろう。それで、俺がその素振りを怠けていたら、お前はどうする?」
「え?それは…まあ、父上に報告致します」
「そうだな。ではこの場合、お前は、父上と俺、どちらの味方だ?」
「へっ?味方…というか、私が言うことを聞かねばならぬのは、父上ですね。…ん?あっ、そうか!!」
「分かったか?」
「はい!えーと、宗次郎はもともと佐野の家来なのに、目付になってしまっては、北条の家来なのか、佐野の家来なのか、分からなくなってしまうということですね!!」
「その通り!それゆえ皆、あのように怒っておったのではないか?」
「なるほどーーー…うーん……しかし、それでもやはり、納得いきませぬ」
「何がだ?」

「皆が、宗次郎にひどいことを言った理由です。…例えば、宗次郎ではなく、他の者が…そうですね、順昭(=よりあき。佐野家家老・坂井順昭のこと)が目付を命じられたとして、皆、斯様に怒りましょうか?」

「……!」


鷹成は考え込むように口許に人差し指を添えた。

(…香は、ただの元気な子どもに見えて、案外、こういうところがある。)

こういうところ、というのは、視点の鋭さのことである。
こと学問においては、安房国一とまで謳われる鷹成でさえ気づけぬような、ひとの僅かな心の機微に、この妹は驚くほど敏い。

その上、それはただの勘というには、あまりに当たり過ぎるのだ。


「…確かに、言われてみれば皆、宗次郎に対してだけ、異常に冷たい時があるな」
「そうでございましょう?」
「うむ。言われてみれば、の域を出ないが…しかし今回は、些か目に余るものがあった」


ーー確かに、前々から気になってはいたのだ。

と、鷹成は目を伏せた。

(もしかして、佐野と桐谷の間で、何か…例えば、後継ぎを巡って、桐谷と佐野が対立したというようなことが、あったのだろうか。しかし…)


「…何ぞあるのでしょうか」


香が、似たようなことを聞いてきた。


「何がだ?」
「宗次郎と、当家の間に、何ぞ諍いでもあったのでしょうか」
「ああーー俺も全く同じことを考えていた。跡継ぎ争いがどうのと言っておったしな」
「でも、宗次郎は佐野の家来衆にすぎないのですよね。宗次郎は当主にはなれないのでしょう?」

香は小頸を傾げた。


「いやーー、」


兄は言う。


「父上が当主になる際に、誰ぞと争ったのかもしれぬ。その時に、宗次郎が敵方についたとも考えられるぞ」

ーーあくまで、推測の域を出ぬが。


と、ついでのように付け加えることも忘れなかったが。


「ただーー」と、鷹成。


「ただ、後継ぎ争いと言うても、父上にはーーー…」


「…後継ぎ争いができるような御兄弟が、いない」



言い淀んだ兄の言葉を、香が引き継いだ。
そうなのである。
佐野家当主・頼成には、兄弟がいない。
どころか、従兄弟さえいない。
よって、「後継ぎ争い」などということが起きるはずがないのである。


「そうなのだ。後継ぎ争いという言葉だけ聞くと、まず有り得ぬからな… 如何せん、推測の域を出ぬゆえ、なんとも言えぬが…とにかく、佐野と桐谷との間に何ぞあったことは、間違いないのだろう」
「そうですね……んーーー、気になる…」


香はうーんと唸っていたが、ややあって、


「あっ」


と小さな声を上げた。


「どうしたんだ?」
「来香丸です!!」
「ら、来香丸?」
「来香丸に聞けば良いではありませんか!」
「それは…難しいのではないか?我らが知らないのなら、来香丸とて、知らないだろう」
「分からねば、それはそれです。取り敢えず、聞いてみるに越したことはないかと」
「それはそうだが…」


鷹成は、眉を下げた。

来香丸(らいこうまる)というのは、桐谷家の嫡男のことだ。
つまり、宗次郎正嗣の子に当たる。
来香丸は香の三つ年上で、香とは、兄妹のようにーー現代の言葉なら、「親友」とでも形容出来るくらいにーーそれはそれは親しくつき合っていた。
香は、来香丸のことを「来(らい)」などと呼んで、よく遊んでいた。

香は、その来香丸なら、或いは知っているかもしれぬ、と踏んだのである。


「いや、お前が行く分には止めはしないが…来香丸も知らぬと思うぞ」


あくまで乗り気ではない兄にはお構いなしという風に、香は、


「私が勝手に行くのですから、誰にも迷惑をかけてはおりませんよね?ならばよいではないですか」


と言って、にっかりと笑った。
はあーーーー…
と、鷹成は深い溜息をついた。

(香のやつは、来香丸に事の真相を聞きたいのではない。あいつは、ただ来香丸に会いに行きたいだけなのだーーー)


とはいえ、そのようなことを言ったところで否定されるのは間違いないし、妹の交友関係について、兄がとやかく言うものではない。

何より、十にも満たぬ子のささやかな楽しみに、わざわざ名前をつけるなど、野暮でしかないのだから。


「…まあ、いいのではないか?どうせ今日はもう剣術の稽古も終わっておるし、行ってこい」
「? まるでわたしだけが行くような口振りですね」
「え?そうだろう?」
「何をおっしゃいます。兄上にも来て頂きますからね」
「何故俺が…」
「いいではないですか、さあ行きますよ!!」


ええー、と渋る兄の腕を右手に引いて、木刀を左手に持ち、香は嬉嬉として廊下を歩いていった。


ーー大方、一人で会いに行くのが、少し気恥ずかしいのであろうな。

とは思ったが、それもまた野暮だろうと思い、鷹成は黙っておくことにした。



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