花の刹那
さて、桐谷邸ーー
達海城城下では、一、二を争う大きさの豪邸である。
桐谷家は1000石(約2000坪。50mプール五つ分程度の大きさ)を食む名門で、従って屋敷も広い。
因みに石(こく)とは、中世日本特有の、土地の広さの単位だ。例えば1000石というのは、1000人が一年間に食べる量の米を、一度に産出できる広さの土地、という意味である。
その桐谷邸の一角、十畳ほどの広さの部屋に、来香丸は住んでいる。
この来香丸、学問も武芸も、どちらも偏りなくこなす。
何より、歌を詠むのがじつにうまかった。まだ12と年若いが、在原業平もかくやと言われるほどの腕前であった。
その来香丸の居室に、香が向かっている。
「来ーーっ」
「あっ、香さま!若様も!」
「遊びに来たぞ。今良いか?」
「もちろんです!書物を読んでいただけですので」
「いつもいつも、香がすまぬな」
「何の!!それがしは香さまや若がおいでになるのを楽しみにしておるのですから!」
来香丸がそう言うと鷹成は、はー、と感心の声を上げた。
「来香丸はよく出来た子だなあ。俺がおなごであったら、迷わず嫁ぎたいと思うであろうよ」
「も、勿体なきお言葉です…」
と照れる来香丸に対し、香はむっと不満げな顔をした。
「兄上は来ばかりお褒めになる…私ではご不満ですか?」
「いや不満ではないが…己より男らしい娘とめおとになりたいとは思わんな」
「あっひどい!!聞いたか来!」
「若様は香さまをお褒めになっておられるのですよ、きっと!」
「えー?どうかのう、兄上はこう見えて、ずけずけと物を仰るからなー」
「確かに、褒めてはないな」
「ほらーー!」
「ははは!まあ良いではないか」
「何がですか…」
「ほら、お前は些かお転婆な所があるだろう。逆に、来香丸は大人しい所がある。その二人がめおとになれば、案外丁度良いのではないか?」
鷹成は、ほんの冗談のつもりでそう言った。
…が。
かあっ
という音が聞こえてきそうなほど、香と来香丸は、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていった。
「なっ、ななななにを仰います兄上!!私と来がめおとになるなど!だっ断じて有り得ぬこと!」
「そっそうでございますっ!それがしが香さまの、お…夫になるなど!畏れ多きことにございますっ!!」
「え……いや、冗談なのだが…然様に取り乱さずとも良かろう…」
若干引き気味の鷹成に向かって、香と来香丸は、『冗談が過ぎますっ!』と仲良く同時に言い放った。
「いやすまん。そこまで怒るとは思わなくてな。それにしても、意外だな。香はそんなに来香丸の妻になるのが嫌なのか」
『えええ!!?』
またもや、二人の声が重なる。
「あっ…そ、そうですよね。それがしのような女々しい男の妻になるなど、嫌ですよね…あはは…」
「ちっ違う!違うぞ、来!家臣の家に嫁入りするなど、父上がお許しにならないから有り得ぬと、そういう意味じゃ!!」
「まことですか…?」
「まことじゃ!」
(………なるほどな)
鷹成は心の中で呟いた。
(この二人、お互いに想いあっておるのだな。そして、二人とも、そのことに気づいていない。)
ーー香め、十にもならぬのに、何を色気づきおって。
とか、
ーー来香丸め、家臣の分際で、香に懸想するなど、許せぬ。
などとは、思わない。
鷹成は、そこまで度量の狭い男ではない。
香も大人になったのだな、とか、来香丸もなかなかやるではないか、とか、そんなことを考えていた。
…ただ。
ーー可哀想な子らだ。
と、思った。
だって、香と来香丸は、絶対に、何があってもーー
結ばれることは、ないのだから。
「ーーー香、」
「はい?」
「来香丸に聞きたいことがあってここに来たのではなかったのか?」
「あ!そうでした。忘れるところだった…」
「は、何でございましょう」
「うむ、それがなーー」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
「…とまあ、こういうわけなのじゃが」
「ははあ、そんなことが」
「それでな、お前なら佐野と桐谷の間に何があったか、知っておるかと思ってな」
「そうでしたか…」
「どうじゃ、何か知らんか?」
「残念ながら、それがしは何も…」
「そうか…」
「お力になれず、申し訳ございません」
「いや、良いのじゃ」
「十蔵殿か、坂井様などにお聞きになってはいかがですか?何ぞご存知かもしれませぬよ」
「そうじゃな…帰ったら十蔵に聞いてみよう」
真相を知る糸口が掴めたようで、香は頬を紅潮させた。
が、瞬く間に顔を青くさせた。
よく表情の変わる子である。
「しまったーーーー!」
いまいち緊張感のない絶叫に、首を傾げる二人。
「あの、どうなされました?」
「すっかり忘れておった…今日は裁縫のお稽古の日じゃ…うわああ、またきりに叱られる…」
「お前…ここに来る前に俺が聞いたではないか。裁縫は良いのか、と」
「ええーーーっ?聞いてませんよお…」
「いや、言ったぞ、俺は。とにかく早く行って、宮に謝るべきではないか?」
呆れ気味に、溜め息混じりでそう言われると、何だかそのような気もしてくる。
「はあ…嫌じゃなあ…きりは母上より怖いゆえ…」
「え、そうなのですか?」
「そうなのじゃ…こう、ネチネチ問い詰めてくるというかの…」
「なるほど…御方様より恐ろしい方もいるのですね」
「来…それ、母上の前で言うては駄目だぞ……?」
「は、はっ…承知しました…」
「うむ…では私は帰ろうかの。来、邪魔したな。兄上はどうなされますか?」
「ん?ああ、俺も共に帰ろう。来の邪魔になってもいけぬ」
「そんな、邪魔など」
「はは、よいのだ。おお、そうだ。また明日にでも、父上と俺の詠を持ってくる。手直しを頼むぞ」
「はい!いつでもお申し付け下さいませ」
「それではの、来!助かったぞ!」
二人を見送ってから、来香丸は再び書に向かった。
達海城城下では、一、二を争う大きさの豪邸である。
桐谷家は1000石(約2000坪。50mプール五つ分程度の大きさ)を食む名門で、従って屋敷も広い。
因みに石(こく)とは、中世日本特有の、土地の広さの単位だ。例えば1000石というのは、1000人が一年間に食べる量の米を、一度に産出できる広さの土地、という意味である。
その桐谷邸の一角、十畳ほどの広さの部屋に、来香丸は住んでいる。
この来香丸、学問も武芸も、どちらも偏りなくこなす。
何より、歌を詠むのがじつにうまかった。まだ12と年若いが、在原業平もかくやと言われるほどの腕前であった。
その来香丸の居室に、香が向かっている。
「来ーーっ」
「あっ、香さま!若様も!」
「遊びに来たぞ。今良いか?」
「もちろんです!書物を読んでいただけですので」
「いつもいつも、香がすまぬな」
「何の!!それがしは香さまや若がおいでになるのを楽しみにしておるのですから!」
来香丸がそう言うと鷹成は、はー、と感心の声を上げた。
「来香丸はよく出来た子だなあ。俺がおなごであったら、迷わず嫁ぎたいと思うであろうよ」
「も、勿体なきお言葉です…」
と照れる来香丸に対し、香はむっと不満げな顔をした。
「兄上は来ばかりお褒めになる…私ではご不満ですか?」
「いや不満ではないが…己より男らしい娘とめおとになりたいとは思わんな」
「あっひどい!!聞いたか来!」
「若様は香さまをお褒めになっておられるのですよ、きっと!」
「えー?どうかのう、兄上はこう見えて、ずけずけと物を仰るからなー」
「確かに、褒めてはないな」
「ほらーー!」
「ははは!まあ良いではないか」
「何がですか…」
「ほら、お前は些かお転婆な所があるだろう。逆に、来香丸は大人しい所がある。その二人がめおとになれば、案外丁度良いのではないか?」
鷹成は、ほんの冗談のつもりでそう言った。
…が。
かあっ
という音が聞こえてきそうなほど、香と来香丸は、みるみるうちに顔を真っ赤に染めていった。
「なっ、ななななにを仰います兄上!!私と来がめおとになるなど!だっ断じて有り得ぬこと!」
「そっそうでございますっ!それがしが香さまの、お…夫になるなど!畏れ多きことにございますっ!!」
「え……いや、冗談なのだが…然様に取り乱さずとも良かろう…」
若干引き気味の鷹成に向かって、香と来香丸は、『冗談が過ぎますっ!』と仲良く同時に言い放った。
「いやすまん。そこまで怒るとは思わなくてな。それにしても、意外だな。香はそんなに来香丸の妻になるのが嫌なのか」
『えええ!!?』
またもや、二人の声が重なる。
「あっ…そ、そうですよね。それがしのような女々しい男の妻になるなど、嫌ですよね…あはは…」
「ちっ違う!違うぞ、来!家臣の家に嫁入りするなど、父上がお許しにならないから有り得ぬと、そういう意味じゃ!!」
「まことですか…?」
「まことじゃ!」
(………なるほどな)
鷹成は心の中で呟いた。
(この二人、お互いに想いあっておるのだな。そして、二人とも、そのことに気づいていない。)
ーー香め、十にもならぬのに、何を色気づきおって。
とか、
ーー来香丸め、家臣の分際で、香に懸想するなど、許せぬ。
などとは、思わない。
鷹成は、そこまで度量の狭い男ではない。
香も大人になったのだな、とか、来香丸もなかなかやるではないか、とか、そんなことを考えていた。
…ただ。
ーー可哀想な子らだ。
と、思った。
だって、香と来香丸は、絶対に、何があってもーー
結ばれることは、ないのだから。
「ーーー香、」
「はい?」
「来香丸に聞きたいことがあってここに来たのではなかったのか?」
「あ!そうでした。忘れるところだった…」
「は、何でございましょう」
「うむ、それがなーー」
✼••┈┈┈┈••✼••┈┈┈┈••✼
「…とまあ、こういうわけなのじゃが」
「ははあ、そんなことが」
「それでな、お前なら佐野と桐谷の間に何があったか、知っておるかと思ってな」
「そうでしたか…」
「どうじゃ、何か知らんか?」
「残念ながら、それがしは何も…」
「そうか…」
「お力になれず、申し訳ございません」
「いや、良いのじゃ」
「十蔵殿か、坂井様などにお聞きになってはいかがですか?何ぞご存知かもしれませぬよ」
「そうじゃな…帰ったら十蔵に聞いてみよう」
真相を知る糸口が掴めたようで、香は頬を紅潮させた。
が、瞬く間に顔を青くさせた。
よく表情の変わる子である。
「しまったーーーー!」
いまいち緊張感のない絶叫に、首を傾げる二人。
「あの、どうなされました?」
「すっかり忘れておった…今日は裁縫のお稽古の日じゃ…うわああ、またきりに叱られる…」
「お前…ここに来る前に俺が聞いたではないか。裁縫は良いのか、と」
「ええーーーっ?聞いてませんよお…」
「いや、言ったぞ、俺は。とにかく早く行って、宮に謝るべきではないか?」
呆れ気味に、溜め息混じりでそう言われると、何だかそのような気もしてくる。
「はあ…嫌じゃなあ…きりは母上より怖いゆえ…」
「え、そうなのですか?」
「そうなのじゃ…こう、ネチネチ問い詰めてくるというかの…」
「なるほど…御方様より恐ろしい方もいるのですね」
「来…それ、母上の前で言うては駄目だぞ……?」
「は、はっ…承知しました…」
「うむ…では私は帰ろうかの。来、邪魔したな。兄上はどうなされますか?」
「ん?ああ、俺も共に帰ろう。来の邪魔になってもいけぬ」
「そんな、邪魔など」
「はは、よいのだ。おお、そうだ。また明日にでも、父上と俺の詠を持ってくる。手直しを頼むぞ」
「はい!いつでもお申し付け下さいませ」
「それではの、来!助かったぞ!」
二人を見送ってから、来香丸は再び書に向かった。