花の刹那
かつて、関東一円をその手に収めた覇者がいた。
後北条家である。
初代早雲からかぞえて3代目、氏政の代に、佐野家の治める安房国も、北条の支配下に置かれた。
香が子どもだった頃は、まさに北条の全盛期であった。
もっとも、成長した香の反抗により、この北条家は滅亡の一途を辿るのであるが、それはまだ、先の話。
さて、その北条氏の本拠地・相模国の小田原城。
城の廊下を、すり足で歩く者がいる。
剣道の癖なのか、それともたんにそういう歩き方なのか。
いずれにしても、只者ではない雰囲気が、その者を包んでいた。
桐谷正嗣である。
目付として、北条本家に来ているのだ。
小田原城下の館で、正嗣は、北条家当主・氏政と話をする手筈になっている。
館の最奥の部屋に通されていたが、今しがた、準備が整ったゆえ参られよ、と告げられたのだ。
正嗣が二の間に到着すると、氏政が、既に一の間に座していた。
普段何事にも動じない正嗣であるが、これには流石に肝を冷やした。
氏政の横に控える家老が、声を発する。
「御館様、桐谷殿が参られました」
「通せ」
「はっ」
二の間には、平伏した正嗣の姿がある。
「おもてを上げよ」
「はっ」
「そなた、安房の佐野家の者であったな」
「は、桐谷正嗣と申しまする」
「さて、此度は、お主の望みを叶えてやったぞ」
「はい。まこと、御館様には御礼の申しようもございませぬ」
「謝辞などよい」
氏政は、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
そして、横の家老をちらと見る。
後はお前が説明しろ、とでも言うようだ。
これ以上正嗣と話すつもりはないらしい。
家老は、小さく頷き、
「わかっておるとは思うが、我々も、この件に時間を掛けたくはない」
と言った。
「それは如何なることでしょう」
「考えてもみよ。あのような小さな家ひとつに時間は割けられぬ。御館様が目指しておいでなのは、関東一円…ゆくゆくは日の本である」
「なるほど。知行の足しにもならぬ小国など、時間を掛けずに芽を詰んでおきたい、というわけにございますか」
「如何にも」
正嗣は、にやりと笑った。
「それについては、ご心配なく。北条様のお手を煩わすまでもございませぬゆえ。ただ、兵を二、三百ほどお貸しいただければ、如何様にもなります」
「では任せるぞ」
「はっ。つきましては、お聞きしたいことが」
「申せ」
「近々、常陸攻めをなさるとのことですが、真ですな」
「うむ。水無月か文月の頃と考えている」
「それならば話が早い。その常陸攻めに乗じて、決行致しまする」
「そうか。では不備があれば申せ。万一にでも、討ち損じなどなきよう」
「はっ」
正嗣は、再び平伏した。
佐野家の周りに、暗い空気が漂い始めている…