花の刹那

さて、舞台はまた、安房国達海城に戻る。

達海城は、現在でいう南房総市の伊予ヶ岳に建てられた、山城である。

日本における山城(やまじろ)とは、険しい山の上に、簡素な建物を造り、地形に合わせて堀や柵、土塀を備え付けただけの、無骨な作りであった。
いざ戦となれば、その城に立て篭もって迎撃したり、籠城したりするのだ。

戦国末期に見られる平城(ひらじろ)、例えば大坂城や江戸城、広島城などとは、少し違う城なのである。

従ってその山城である達海城には、人が住むための備えは一切ない。

いわば、戦うことのみに特化した要塞だと言える。

では、平素、戦わぬ時は、どこに住んでいたのか。

それは、山の麓である。
麓に大きな屋敷を建て、そこを居館とし、普段はそこで生活していた。

佐野家も同じである。

伊予ヶ岳の山頂には達海城を建て、麓には「佐野館(さのやかた)」という名の、ひときわ大きな屋敷を建て、そこに佐野本家の者たちを住まわせた。

香もまた、この佐野館に住んでいる。

館の前には櫓のついた門があり、その門から見て左側の建物の中に、香の部屋がある。


来香丸のもとから帰ってきた香は、青い顔をしながら、屋敷の廊下を早足で歩いていた。

(はあ…きり、怒ってるだろうなあ…何て言い訳しよう…)

香は、とうとう自分の部屋の前に辿り着いた。

部屋の中では、侍女であるきりが、既に正座して待っていた。

(げっ)

と、香は、内心苦い顔をした。

しかし、そんなことはおくびにもださず、香は、いかにも反省しているかのような顔をして、項垂れながら部屋に足を踏み入れた。


「…あの、きり…」


呼びかけるも、きりは無表情のまま動かない。


「…………き、きり、ごめ「お座り下さい」


ごめんなさい、と言おうとした瞬間、きりの鋭い声が飛ぶ。


「ハッ、ハイッ!」


じつに素早い動きで、香は部屋の入り口に座った。

尚も、きりは動かない。
無表情のまま、身じろぎもしない。

おかしな光景である。

侍女が姫の居室の真ん中に陣取り、当の姫は、部屋にも入れてもらえず、入り口で縮こまっている。

そのまま、八半刻(約15分)が過ぎた。

とうとう、香が音をあげた。


「あ、あの…………きり、何か申せ。稽古をすっぽかしたことは、悪かった。反省しておる。しておるゆえ、何か言うてくれ」


と言うと、きりが初めて、香の方を向いた。

切れ長の瞳が、香を見据える。

びく、と、香の肩が揺れた。

きりは、座ったまま、畳に手をついて方向転換し、香の真正面に向き直った。

(ああ、長説教が来るな)

と香は直感した。


「…姫」

「は、はい」

「姫の方こそ、何ぞ言うことはございませぬか」

「えっ」

「ございませぬか?」

「えっ…あ、ご、ごめんなさ「それではなく」

「ええ…?」

「…………」


ふうーー、と、きりは溜め息をついた。

(ああ、やめて、お前の溜め息は一番怖いんだから…)

香は、必死で頭を動かした。

(…あっ)


「待っていてくれて、ありがとうございます…?」


語尾に疑問符をつけながらも、香は、きりが最も求めていた答えを探し当てた。

きりは、少しだけ、ほんの少しだけ表情を緩め、


「そうです。何故それを、いの一番に仰らないのです」


と言った。


「だっ、だって…」

「言い訳をなさらない」

「はあい…」

「返事ははい!」

「うう…はい」

「よろしゅうございます。それから?」

「遅れてしまって、ごめんなさい」

「然様です。よう言えました」


はあーー…
香は、安堵の息を漏らす。

安心からか、香は、ぐにゃりと正座の姿勢を崩し、いつものように胡座をかいた。


「もう、きりに怒られるのが一番怖い。黙って何も言われぬのが一番堪えるのう」

「姫が然様な性格と知っておるゆえ、あのような叱り方をするのですよ」


そう言って、きりはすこし微笑んだ。

きり
とは、香の教育係である。
生まれは、佐野家筆頭家老・坂井順昭(さかいよりあき)の娘で、ことし23になる。

坂井家は、佐野家中では一番の石高を誇る名門として名高い。
その領地は、桐谷よりもずっと多い、5120石である。
大名とまではいかないが、安房国内では、とほうもない大領と言える。

そのためか、長女であるきりは厳しく躾けられたらしく、武家のおなごのやるべきこと(裁縫や薬の調合、医術、読み書き、和歌や薙刀などなど)は、一通りなんでもできる。

ただ、性格に難がある。
己に厳しいだけでなく、他人にも厳しい。

というか、容赦がない。

そして感情表現が極端なのだ。

気に入らぬと思えば気に入らぬと言い、気に入ったと思えば果てしなく尽くす。

いっそ清々しいくらいであるが、周りの男たちからは、その厳しすぎる性格を恐れられている。

ゆえに、女盛りの23であるのに、いまだ嫁の貰い手がいない。

切れ長の目をしており、肌も髪もツヤよく、なかなかの美人ぶりであるというのに、勿体ないことである。


「姫様、いつも言うておりますが…」

「わぁかっておる。『すまぬ』より、『ありがとう』を先に言え、であろ?」

「はい」

「おまえはそればっかりじゃなあ」


きりは、すこし眉を下げた。


「…姫」

「ん?」

「私がなぜ、いつもいつも、口を酸っぱくして、すまぬよりありがとうを先に言え、と申しているのか、分かりますか?」

「…?さあ、見当もつかぬ」

「あなた様は、一国の姫であらせられます」

「うん」

「さすれば、いずれはどこぞへ嫁いで、佐野の御為にお働きあそばすことになります」

「…うん」

「姫はもともとお強い方ではありますが、如何せん、まだお若い。ゆえに、初めのうちは、うれしと感じることよりも、苦しと感じることのほうが、ずっと多うございましょう」

「そうなのか」

「そういうものでございます」

「ふうん…」

「さればこそ、姫様には、どんな時でも、有り難しと思えるお心をお持ちいただきたいのです」

「…なにゆえに?」

「ひとは、すまぬ、すまぬと謝り続ける小心者より、ありがとう、と素直に言える寛大者のほうを好みまする。御屋形様のことを思い出しくださいませ」

「父上を…?」


言われてみれば、父が謝る姿というのは、あまり見ないな、と香は思った。

どちらかと言うと、「ありがたいのお」とか「ありがたく頂戴しよう」とかいうように、「ありがたい」という言葉をよく使っている。

(父上は、娘の私が言うのもなんだが、領民からも、家臣からも慕われているように思う。
それは、こういう心の働きがあったからなのか…)

「…なんだか、きりにそう言われると、そんな気がしてくるのう」

「それが真実にござりますれば」

「はは、そうか。…うん、心得た!では、そのようにする」


きりは、満足げに目尻を緩めた。


「さて、姫様」

「ん?」

「さっそく稽古に入りましょう」

「あ、ああ、そうじゃの。今日は、何をする?裾の繕いか?」

「いえ、刺繍をばと思うておりましたが…なぜですか?」

「あー…あの、先ほど、兄上にお手合わせ頂いて、ちょっと…ちょっとだけな?ちょっとだけ、袴の裾が破れた…」

「…またですか」

「うっ…よ、よいではないか…お陰で、すっかり裾の繕いは上手うなったぞ!」

「………では、その繕いを早く済ませて、刺繍に入りましょう」

「えへへ、ありがとの、きり!」


そう言って、満面の花を咲かせる主を見て、きりは、

(この方だけは、私が、何があってもおまもりしよう)

と思うのだった。

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