魅惑への助走
 「え」


 泣いてなんかいない。


 なのに微妙な声の震えに、上杉くんは気がついたようだ。


 「今夜は職場の飲み会だって言ってたよね。何か嫌なことでもあったの?」


 「……」


 出演をお願いした人気AV男優に、肉体関係を迫られた。


 一種のセクハラ。


 パワハラとも表現できるのだろうか。


 口をつぐんだ。


 仕事は映像関係だとは伝えてあるけれど、それがアダルトビデオ製作だとは打ち明けてはいない。


 渦巻く胸の思いをありのままにぶちまけてしまいたいところだけど、今さら本当のことは告げられず。


 「もしよければ話してみてよ。こんな時間に電話してくるくらい、我慢できないようなことがあったんだよね?」


 「私……」


 上杉くんの声は優しく穏かで。


 荒れ果てた私の心に、優しい雨のように染み込んでくる心地がした。


 癒される。


 「俺には話を聞いてあげることくらいしかできないけれど、それで武田さんが救われるのならば幸いだよ」
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