魅惑への助走
***


 「あの夜は何事かと思ったよ。真夜中過ぎに震えた声で電話がかかってきて」


 数日後。


 定時帰宅の日、恒例の夕食に出かけた際、早速上杉くんが切り出した。


 「ごめんね夜遅く。寝てたでしょ」


 「まだ横たわって、本を読んでいたよ」


 それは私を気遣っての、嘘だと思う。


 上杉くんはすでに寝ていたのに、私の電話に叩き起こされたはず。


 「いつも元気な武田さんがあんな様子で、相当大変な事態に巻き込まれてるんじゃないかって、ほんと心配した」


 「重ね重ねごめんね、お騒がせして。もう大丈夫だから」


 本当はあまり、大丈夫ではなかった。


 あの後どこから探り出したのか、片桐から私の携帯電話に電話がかかってきたのだ。


 その際はびっくりしたけれど、すぐに冷静になり、何とか通話を終わらせた。


 誘いの言葉ものらりくらりとかわして。


 もう口車に乗ったりなどしないと、私は自信を持って言い切れる。


 なぜならば……。
< 120 / 679 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop