魅惑への助走
 「武……」


 抵抗を妨げるかのように唇は塞がれ、言葉は飲み込まれる。


 私の突然の振る舞いに、上杉くんは驚きを隠さない。


 しかしながらよける暇もないまま、なすがまま私のキスを受け入れていた。


 とろけるような甘いキスなどではなく、私のほうから無理矢理唇を重ねたに過ぎない程度。


 「……ごめん」


 見返りのないキスに寂しさを感じ、私はそっと唇を離した。


 「つい安堵して。さっき怖かったから」


 そう告げて今度は身を寄せて、寄りかかってみた。


 心臓の鼓動が聞こえるくらいに。


 「さっきのチンピラのこと? 大事に至らずよかったよ」


 私を受け入れるでも突き放すでもなく、上杉くんはそのままでいてくれた。


 「上杉くんが来てくれなかったら、私……」


 「ごめんね、一人でどっか行っちゃって。その間に武田さんを怖い目に遭わせて」


 再び謝ってくれる。


 でも私は、心の底から片桐が怖かったわけではない。


 怖かったのはむしろ……すぐに目の前の甘い言葉に流されそうになる、私の心の頼りなさ。
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