魅惑への助走
 「明美、帰ってたんだ」


 シャワーを終え、慌しく髪を乾かしベッドに入り込んだ時、ようやく上杉くんは私に気がついた。


 「遅かったね。いつもお仕事ご苦労様」


 すでに午前六時を過ぎ、この時期でもすでに日の出時刻を過ぎている。


 いわゆる朝帰り。


 私が遅くなった真の理由など知る由もなく、上杉くんはそっと私に腕を伸ばす。


 「寂しかったよ」


 たった一晩いなかっただけなのに。


 上杉くんは帰りの遅い母を待つ幼子のように、私に頬を寄せる。


 そしてそのまま、なし崩しに肌を重ねようとする流れ。


 「ごめん。さすがに今は眠すぎるから」


 パジャマのボタンに伸びてきた腕を押し戻した。


 「そうだよね。無理しないで、今は寝たほうがいいよ」


 上杉くんはそれ以上無理強いはせず、それぞれ再び眠りに落ちてしまった。


 その時の私は眠かったのも事実だけど、それ以上に上杉くんの顔を見ることができず、眠いふりをして背中を向けたままだった。


 ありのままの自分を晒すと、先ほどまで裏切り行為をしていたことを勘付かれそうで怖くて……。
< 369 / 679 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop