魅惑への助走
 「はい、武田です」


 ここのオフィス内には、固定電話は二台置かれている。


 一台は社長のデスクに、そしてもう一台が私のデスク上。


 最も後から入社した私は電話番も兼ねているため、すぐに電話に出られるようにとのことで。


 「やあ、明美ちゃん。やっと二人きりで話せるね」


 「……」


 「さっきはSWEET LOVE内に松平社長や、他の社員さんがいたから、あまり込み入った話はできなかったけど」


 「保険の話でしょうか」


 「ま、それもそうだけど。それより金曜日の件」


 やはり切り出してきた。


 「ホテルで朝起きたらもぬけの殻だったから、寂しかったよ」


 オフィス内は常時有線放送が流れていることもあり、電話の向こうの葛城さんの声までは、社長はもちろん隣の席の榊原さんにすら聞こえないはず。


 なのに会話を聞かれたらどうしようと不安で落ち着かない。


 「仕事中ですので、その件はまたいずれ」


 私も周囲に会話を聞かれたらまずいし、電話の向こうの葛城さんも周りの社員に、ホテルだとかそんな話を電話でしているのを見られて恥ずかしくないのだろうかと危惧した。
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