魅惑への助走
 「綺麗だよ、明美……」


 私のささやかな夢、子供を産みたいという夢を今日も踏みにじった葛城さんは。


 せめてもの詫びのつもりか、私の耳元で囁く。


 私が最も喜び、そして再び体を火照らす言葉を。


 私が子供を欲しがるのは、年齢的な焦りなどではないし、周囲から圧力が加わったからでもない。


 自分の進むべき道に不安が生じた時、心細さが加わると衝動的に子供を求めるようになることを葛城さんも熟知している。


 子供が生まれれば……。


 今の自分を取り巻く、ロンドンの霧のような不安も忘れ去ることができるような気がしていたのだ。


 「明美が心細さを覚えたら、いつでもこうしてあげるから」


 私の背中を抱きしめながら、葛城さんは誓う。


 「だから当面は、こうして二人だけの生活を楽しもう。子供ができたら……、俺か明美、どっちかが夢を少し縮小しなきゃならなくなるのは間違いない。少なくとも俺は耐えられない」


 確かに子供が生まれたら、子育てのために自分の趣味や仕事の時間の何割かは削らなければならなくなる。


 私にとってもそれが厳しいのは、自分自身分かっているはずなのに……。
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