「先生、愛してる」


先生の言い方に、少し引っかかる箇所があったが、特に気にしないことにした。母の愛人に誘われた時のように、"危ないことに合わせたくない"というものだったかもしれない。


秋奈、先生はそう呼ぶと、私の体を包み込むように抱き寄せた。先生の胸の辺りに、私の頬が触れる。耳を横に当てると先生の心臓の鼓動が伝わってとても心地よかった。


先生と生徒、本来ならばこんな風に触れ合ってはならないはずなのに、どうしても彼を拒否することが出来ない。有るまじき行為だと自分の心を偽り、強気になっていた分、堪えていた欲望が溢れるように胸の内を満たしていく。


ここは学校ではないのだ。先生と“二人だけ”が許された特別の空間。私も先生に応えるように、彼の背中へと手を回した。


温かい。触れ合った箇所から熱が広がって、まるで溶けてしまいそうだ。ただ抱き合っているだけだというのに、今までにない幸福感を感じ取る。この抱擁にある意味は分からない。けれど今は、ただこの時を思いきり味わって噛み締めていたかった。


しばらくすると、先生は私から体を離す。
先生の顔を見てみると、なぜか彼は悲しそうな表情を浮かべていた。


「先生?」


そう声をかけると、先生ははっとしていつもの様子に戻った。


「すまない、時々、どうしても自分の立場を見失いそうになる時がある」


先生と生徒だから、きっとそう言いたいのだろう。

私と先生は、いつだってその壁を守って生きてきた。
共に二人で築き上げてきた壁、頑丈で決して崩壊するはずのない分厚い大きな壁。だというのに最近、その壁に思いもよらぬヒビが入り始めた。小さなものから始まって、時間をかけてゆっくりと広がる特殊なヒビだ。

それはきっと、私も先生も、お互いに心が近寄り過ぎてしまった紛れもない証拠だろう。


このままではいけない、分かっているはずなのにどうして、いつからこんな風になってしまったのだろう。関係を持ち始めた当初は、こんな禁忌に反する行為など求めすらしなかったというのに。


「こんなはずじゃなかった」


先生は力なく呟いた。

そんなとき、私は気付く。ずっと心の奥底に縛り付けていた自身の欲望。それらを封じ込める役割のための鎖は、いつの間にか錆びてぼろぼろになってしまっていたようだった。


「先生、私、愛の確証さえあればそれでいいとずっと思っていました。けれど今は違う。私はさっき、先生に名前を呼ばれて、抱きしめられて、確かに幸せだと感じていた」


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