「先生、愛してる」


嫉妬もまたそれに値する。自分がこんなにも喜びに満ち溢れているのは、きっとそのせいだろう。


外に出ると、本来なら先生の家へ向けて歩くはずが逆方向を向いた。大切なものを、取りに戻ろうと思っていたのだ。何度と曲がり道を行き、住宅路を過ぎていく。すると次第に、モノトーンの自宅が姿を現してくる。


到着すると、恐る恐る敷地の中へと足を踏み込んだ。鍵が閉まっているであろう扉の前まで歩みを進めると、ゆっくりとドアハンドルを握り、一か八かで引いてみる。

ガチャりと音を立て、予想とは反対になんの抵抗もなくすんなりと扉は開いた。施錠されているはずだと思っていたため、私は素直に驚く。しかし同時に、また中に母と愛人がいるのではないかという恐怖に襲われ、手に汗が滲む。


玄関に入ると、出来るだけ音が出ないよう静かに扉を閉めた。真っ直ぐに続く廊下を一瞥すると、いつか娘に構うことなく情事にふけった彼らの姿が脳裏を過ぎり、私は眉をしかめた。


捨てた筈の家庭に戻ってきた人間を、あの母が迎え入れるとは到底考えにくい。その分、異常ではないかと思うほど緊張していた。しかし、玄関先で転がる靴を見て、私は思いのほか安堵した。そこには、母の靴は一つも存在しなかったのだ。


ここに母はいない。その事実が、身の震えを驚くほど一瞬で沈めてくれた。鍵が開いていたのは、恐らく母の不注意が生み出した結果だろう。


靴を脱いで家に上がる。過去、廊下に置き去りにしたはずの鞄は無くなっていた。それを探さねばならない。しかし、リビングルーム入るとそれは呆気なく見つかった。机上に、象徴するかのようにぽつんと置かれていたのだ。


近くに寄って、鞄に触れる。

鞄の口を開けると、私は教科書でも筆箱でもなく、淡黒い表紙のハードカバーの本のみを取り出した。


『月光』、タイトルを見てほっとする。やっと見つけた。


先生の友人が書いたという話を聞いてから、これが気になって仕方がなかった。早く取りに行かねばと、読まなければならないと思っていた。


先生は取りに行かなくていいと言ったが、私は何よりも、この本を知らなければならないという使命感に駆られていた。先生の友人の本だというこれに触れることで、先生の過去へも触れられると思ったのだ。


本を手にすると、私は家を出ようと振り返った。しかしその瞬間、ソファの汚物が目に入る。毎朝のように私が片していたはずの汚物、男女の交わりの象徴を直視した。

革製の茶色いソファに、白の液体が点々と浮いている。浮いている、ということはさっきまでこの家にいたということなのだろうと思う。


普段なら顔を歪めてタオルかティッシュペーパーで触れるはずのそれに、その時の私は素手で手を伸ばした。

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