「先生、愛してる」


死んだらどうなるのか────そんなこと、死んだことがないからわからない。
けれど確実に、彼の頭の中に存在は刻みつけられるだろう。

例えどれほど自分が傷付こうとも、先生の人生を"私"というもので満たすことが出来るのなら、いっそなんだって構わないと思った。


「秋奈、馬鹿なことはやめろ」


「馬鹿じゃありません。正気です」


必死になる先生が堪らなく愛おしい。なんて恍惚たる情景だろう。これを最後に死ねるというのなら、寧ろ本望と言ってもいい。


「ねぇ先生、最後に触れさせて」


私はそう言うと、一歩、また一歩とゆっくり先生に近づいた。決して彼が動けぬよう、また動いてもすぐに掻っ切れるように包丁だけは首に当てたままにしていた。


右手をそっと先生の頬に添える。温かい。触れた指先から、頭へ突き抜けるような痺れが走った。これが、"触れる"ということか。その感覚に、私は頭がおかしくなりそうだった。


今まで、何度か先生に触れたことはあった。けれどそれは男女の関係を証拠付けるものでも、性的な意味も含まない。ただの、触れるという行為だ。


先生は動かない。じっと私を見つめたまま、今まさに起ころうとしている事実を受け止めようというような姿勢だ。


「私の腰に、手を回して」


私が言うと、先生は言う通りにする。自身の腰に先生の手の感触がした。抱きしめられているようで、心が弾む。


「ありがとう先生」


先生のかけている眼鏡を取り外す。
自分より背の高い先生に合わせるように、私は負傷していない片足の力だけを使って背伸びをした。
少し伸びた距離の先で、自身の唇と先生の唇が重なり合う。ゆっくり、目を閉じた。
愛しい愛しい先生との、初めての口付け。

それは岸田の時とは異なった、触れるだけのものだった。しかし、それだけでいい。
先生との交わりに舌も愛撫もいらない。


"触れる"。それだけで、もうこんなにもとろけてしまいそうなのだ。何秒、経っただろうか。もしかすると二、三秒という短い時間かもしれない。けれどそんなこともわからなくなるほど、この瞬間はとても長い長いものに思えた。

離れたくない、ずっとこのままでいたい。
触れることがこんなにも気持ちの良いものなら、もっと我儘に触れておけばよかった。なんて思いもしたが、きっとそれではこんな関係すぐに崩れていただろう。

これが最初で最後の触れ合いだ。

先生との最後の瞬間、そして関係の破錠。想像もしていなかった。こんな形で終わるのなら、それも悪くない。

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