脈打つルージュ
キャンバスと画家
『なんで泣いてるの』
『みんなが、俺の描く絵はおかしいっていう』
『おかしいっていうか、頭おかしいんじゃないのってくらいうまいよね』
『そんなこというの、奈津だけだ』
『いや、あんたの絵は、頭がおかしいくらいうまい』
『褒められてるのか馬鹿にされてるのかわからなくなってきた』
『彌広の描く絵は、見てると頭がおかしくなるくらい、きれいだよ』
はるか昔、こんなやりとりをした幼馴染はなるべくして画家になった。
伝統だけはあるコンクールで最年少受賞し、一年間の海外留学を副賞としてもらい、そのまま行方知れずになること三年。
帰ってきたときには、私の知っている彌広《みひろ》ではなくなっていた。
「奈津、ちゃんと体毛剃ってきてってば」
六畳一間の薄汚れたアパート。
窓枠や外の階段なんて錆びて赤茶けている。
薄暗い蛍光灯の灯りに照らされた室内で、かちゃかちゃと絵の具やらファンデーションやらチークやらを畳に転がして、彌広はこちらを見もせずに言う。
インドから帰ってきたときにはどこの荒野でなにを悟ってきたのかという様相だったが、今はなんとか普通の見た目に落ち着いた。ユニクロってすごい。
「ここんとこずっと、残業続きでゆっくりお風呂に入れなかったんですよね。どこぞの画家様とは違って、社畜は今日の今日まで無駄毛剃る余裕もありませんでしたの」
舞台用のおしろいの上に脱いだスカートを放り投げて、彌広の薄い肩を足蹴にした。
彌広の呆れたような半眼が、私の股間を捉える。
「パンツからはみ出てるんですけど」
「今からあんたの大好きなツルツルボディになってきてあげるから、お風呂貸して」
「ひげ剃りしかないよ」
安心しなさい。ちゃんと家から持ってきたから。
かちゃかちゃと絵を描く準備を始めている彌広を横目に、私も風呂に入って準備する。
髪はショートカットなので結う必要もない。簡単にボディソープを泡立てて、体に塗りたくり、シェービング用のカミソリで無駄毛や産毛を剃っていく。このとき、少しの剃り残しもあってはならない。筆の進みが悪いと、彌広はきっと『キャンバス』を替えると言い出すだろうから。
彌広曰く「見識を広めるための世界旅」から帰ってきた彼の作風は、絵といえば絵だが、筆を乗せる対象がだいぶ変わっていた。
人の、生身の肉体をキャンバスに、彌広は様々なものを描きたいと私に言った。まだ構想段階だったそれを、私は黙って聞く。人の肉体――つまり女の裸体に、絵を描く。
それを、〝奈津〟というキャンバスで実行させることにしたのは、私自身だ。
首筋に、乳房に、腹部に、腰周りに、大腿に、爪先に、時には歯にも。
人間を構成する、皮膚という皮膚に、彌広は描いた。
森林を背景に、そこに溶け込むように肉体に風景画を描くこともあれば、魚が泳ぐ水槽を描いた肉体を、街中にぽつんと置いてみたこともあった。
どれも倒錯的で、妙な引力があり、なおかつ、馴染む。けれどその馴れを受け入れきれない、不可思議な違和感。
そういったキャッチフレーズで、彌広の『世界』は瞬く間に世間に広まった。
そんな彌広は、たった一人、私だけをキャンバスにする。海外の有名な画商が、数人の女体を使って個展をしないかと持ちかけたときも、彌広は断った。たくさんいると欲情しちゃうから。と、意味不明な理由をつけて。
(私の体には欲情する価値すらないわけか。……まあ実際、勃たないし)
彌広の前では、幼馴染の裸など平面なキャンバスに過ぎないのである。
(確かに、凹凸はないな)
ささやかな乳房を見て、悲しくなった。絵を描くなら平面的な男の体のほうがいいのではないかと一度問うたことがあったが、女性特有の曲線がうまく色に陰影をつけてくれるから好き、と応えられたことがあった。
「奈津、ここに座って」
風呂からタオルを巻いて出ると、彌広はもう準備万端だった。
手入れのされていない畳の上に転がるのは、色とりどりのアイシャドウ、チーク、アイライナー、口紅、マニキュアという、女の子を彩るための色の魔法。
人に描くからにはと人を装うための道具を使うことにした彌広は、様々なブランドの、様々なコスメを使って私の体に絵を描いている。お陰で化粧品会社のスポンサーまでついているわけだが、使うブランドに制限はないと聞いた。
ボビィブラウンの働く女子的アイライナーに、ジルスチュアートのお姫様チーク、カバーマークの万能女子系ファンデに、マジョリカマジョルカのチェシャ猫アイシャドウ、紫夫人代表アナスイのカラーマスカラ……実に目に鮮やかだ。華やかなコスメ達に、傷んだ畳は似合わないと心底思った。
「今日は座って描くの?」
「うん。練習。背景と同一に描く。一応写真撮って、ミレーさんに送る」
「あのクソマネ」
「敏腕だよ。俺がブランドにこだわらず化粧品使えるのも、ミレーさんのお陰だし」
ちなみに美鈴と書く。写実主義のミレーとかけているらしいのだが、私にはどのミレーさんかさっぱりわからない。
「動かないで」
私がタオルを取って素っ裸になると、彌広にはもう私なんぞキャンバスにしか見えていない。むき出しの肩も乳房も臍も太腿も、ただ絵を描くための素材と化すのだ。
(……虚しいと思ったことなんか、数知れない)
こんなに想ってるのに。こんなに大好きなのに。こんなに見つめているのに。
だから彌広が人の全てを使ったボディペイントをしたいと言ったとき、羞恥心もプライドもかなぐり捨てて、モデルに立候補したのだ。彌広のキャンバスになるということは、衆目に曝されるということ。この試みを始めたばかりのころは、それこそ写真を撮って大きなパネルで発表していたが、軌道に乗り出して個展なんかが開催されると、私は絵の具と化粧品のみを纏った姿を大勢の人間に曝すことになった。両親も反対したし、彌広もこれには本業のモデルを使うと言っていたが、それを却下させたのは私だ。全く知らない人に、時には顔見知りに、色の鎧を纏っただけの、自分の裸体を見せる。
それでもやはり、彌広が他の女の体に触れることを、私は許容できなかった。
(……いいのよ。昔みたいに、あんたが絵を描く姿を、一番近くで見ていられるなら)
彌広とは本当に昔からの付き合いだ。
ドラマや漫画でよくあるような、赤ん坊の頃からのお付き合い。家が隣同士で、両親も仲が良く、お互いの家を行き来しては姉弟のように育った。幼稚園に上がる頃には彌広は様々な絵を描くようになっていたし、その絵を完成して一番に見ることができるのは、私の特権だった。
いつもはどこかほんわかした雰囲気の彌広が、キャンバスや画用紙に向かうときだけはじっと黙り込んで妥協を一切許さなくなる。
私は、彌広が持つ筆の先に恋をした。そしてそれは、今も変わっていない。
彌広の持つ大き目の刷毛が、すくったアクリル絵の具を私の体に塗っていく。もったりとした冷たさに身を震わせるが、必要以上には決して動かない。床に散らばる化粧品たちの出番は、まだまだ先だ。なにせキャンバスが大きいので、まずは正当な手法で下地を整えることから始める。ある程度、体に色が乗ってきたら化粧品を使って細々と、更に緻密に、描き込んでいく。
ラメの入ったファンデーションやアイシャドウは陰影をつけることに役に立つし、光に当たったときの肌に馴染むきらめきがお気に入りだそうだ。口紅やチークは、ブランドによって扱いを変えなきゃならない面倒臭さがいいと言っていた。
彌広は芸術馬鹿だ。ほら、寒さと興奮で立ち上がっている私の乳首なんて素通りして、なんの感情も湧かない目で筆を走らせていく。
「プリン食べたくなってきた」
それはプリンほどの膨らみしかない私への嫌味か?
「買ってきてあるよ。あんたが好きなコンビニのやつ」
「やった。さすが奈津」
絵を描いている間、こうしてお喋りすることは珍しくない。彌広も一応、自分がいまキャンバスにしているものは生物《なまもの》だと、頭の端ではわかっているのかもしれない。
「彌広はさあ、私に絵を描いているっていうより、化粧をしてるみたいだよね」
「え、なに」
「だから、絵じゃなくて、化粧」
「化粧品使ってるから?」
それもあるけど。
「私を別人に、……寧ろ全くのべつものにしてくれるから」
彌広の手にかかると、私は森にもなり、水槽にもなり、肉にもなり、壁にもなる。決して素の私ではなりえない存在に、彌広の手によって変身できるのだ。そういうところは、女の子の化粧と似ているような気がする。
「なるほど、……化粧ね」
彌広は納得しているのかしていないのかわからないような顔で、一応の相槌を打った。
(できればそこに転がってるお高い口紅を私の唇に引いて、キスしてくれたらとっても幸せなんですけど)
と、毎回のように思ってしまう私も大概だ。
まあ、思うだけはタダだよな。
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