脈打つルージュ
ミレーさん
「あ」
「げ」
彌広のアパートからの帰り道、ついてないことに美鈴と鉢合わせしてしまった。まさかこんな気分でこの男と会うことになるとは思っていなかったので、油断しまくっていた。
「奈津さんじゃん。唇、真っ赤だけどどうしたの。口裂け女みたいになってるよ」
なんとか服は着たけど、彌広の唇に触れた口紅を取ることなんてできなかった。
口裂け女でもヤマンバでもいいから、そこをどいてくれないだろうか。
私が黙り込んでいると、まるで全て知っていますよ、と言いたげに美鈴は笑った。
「彌広もさあ、君一人に絞らないで、数人使えばもっと大々的に活動できるのにねえ」
胸ポケットから煙草を取り出して、美鈴は私を見下ろす。
美鈴は、彌広の才能を埋もれさせている私を毛嫌いしていた。
(……そのとおりだな)
キャンバスを複数使うことを拒否したのは確かに彌広だが、私がそのように誘導したと言われても否定できない。たった今も、キャンバスを替えようかなと言われたことに対する暴挙があれだ。救いようがない。
(でも、……だって)
彌広が、私以外の女性の裸体を見て、それに触れて、作品にする――そんなの、想像すらしたくない。あの濃密でひそやかな時間を、私以外の女性と過ごすなんて。
なるほど確かに、彌広がもっともっと高みへ行くための道を、私はくだらない嫉妬で塞いでいる。
「……女の嫉妬は、ほんと、男を殺すヨ。こわいこわい」
美鈴に遠慮はない。
彌広の作り出す世界に惚れこんでいるからこそ、私が許せないのだろう。
「美鈴さんて、私のこと大嫌いですよね」
わかりきったことを私に言い聞かせて、どうしようっていうの。
「そうだね、俺は彌広の絵を愛しているけど、キャンバスであるあんたは嫌いかな。作品でいる間はいいけど、動き出すと品のない全身刺青女みたいでさ、ちょっと引くよね?」
全国の刺青女子に謝れ。
「しかも彌広が海外留学してる間も、ずっと一途に待っていたらしいじゃない。いい年なのに実家住まいで、いつ隣の家に彌広が帰ってきてもいいように。パラサイトシングルってやつ?一歩間違うとストーカーだよ。で、日本に拠点を定めた彌広の傍にいるためだけに恥ずかしいカッコ世間に曝して、身体張って彌広の気を引こうと頑張ってるのに相手にもされないあんた見てると、もうほんと、見苦しくてならない」
美鈴の瞳が冷たく光る。
(……いたい)
心臓から血が吹き出している。
「そんな奈津さんに、すっごく悲しいお知らせー」
にこにこと、火を点けた煙草を揺らしながら美鈴が楽しそうに笑った。
「彌広は今日ね、君ではない新しいキャンバスに、絵を描いたんだよ」
――あ、心臓潰れた。
彌広の部屋で嗅いだ、甘い香りが蘇る。
「なかなかよかったよ。本業から応募かけたから堂々としてるし、顔もスタイルも申し分ない。彌広とも相性がいいみたいで、君のときより筆が進んでたしね」
美鈴の声がどんどん遠くなる。
薄い膜ひとつ隔てて、私は暗い渦に落ちていく。
(……ああ、だから、〝描けない〟)
彌広は、私以上の文句のつけようのないキャンバスに出会ったのだ。
そりゃ、不恰好なキャンバス相手じゃ途中で筆をやめもしますよね。
「彌広はこれからどんどん大きくなるよ。もともと海外でもある程度のコネクションをつくってから帰国してるし、君から解放されれば、彌広は一躍時の人になれる。……聞いてる、奈津さん?」
私の様子がおかしいことに気付いたのか、美鈴が不審そうな声を上げた。
あんたの声に、応えてる余裕なんかない。
「……じゃあ、お役ごめんってことで」
乾いた唇が紡ぎだしたのは、その一言だった。
彌広とキスしたことも、何故かあそこが反応してたことも、すっかり頭の隅に追いやられて、美鈴のいけすかない言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。
(……解放――。私は、彌広にとって煩わしいだけの鎖だったわけか)
せめて使える道具くらいにはなりたかった。
彌広の周りに散らばる絵の具や筆、口紅やチークみたいな、女の子を輝かす道具のように彌広の絵を構成する一部になれたら、私は。
「……そうか、終わったのか」
キャンバスとして廃棄されたと同時に、私のしつこい恋も終わった。