脈打つルージュ
わかい
「彌広」
錆びた蝶番を破壊する勢いで、私はボロアパートのドアを開けた。
彌広は、何故か上半身裸でうつ伏せになっている。その周囲には私が最後に見たときと同じように、絵の具や筆、きらきらとした化粧品達が転がっている。よく見ると化粧品の格がグレードアップしていた。おい、シャネルの口紅どうする気だよ。くれ。
まさかその口紅で描いたのかと知りたくはないが、彌広の身体には、ところどころ色が塗ってあった。まるでらしくない、ばらばらで落ち着きのない、無秩序な色の散乱。
「彌広、寝てるの?」
声をかけても、彌広は動かなかった。
奥の窓は開け放たれていて、黄ばんだカーテンが波のように揺らぐ。少し肌寒い。
靴を脱いで、荒れた畳に足を踏み込む――ボディミルクの甘い香りは、しなかった。
「ちがうんだ」
蹴っ飛ばして起こそうか、と考えていると、俯いたまま彌広がぼそぼそと喋った。
なにが、と私が口にする前に、彌広は言葉を続ける。
「臍の形が違った」
「肩から胸への曲線が違った」
「絵を描くには脚と腕が細すぎて、絵がかわいそうだった」
「肌が柔らかすぎて、筆の乗せ方が難しかった」
「色の乗りが妙に悪くて、どうしてだろうと思ったら、身体になんか塗ってた」
そこでようやく、新しいキャンバスのことを言っていることに気付いた。
「……あんた、その人のこと気に入ってたんじゃなかったの」
彌広の頭の傍でしゃがみこんで、こちらに向けられている旋毛に向かって話しかける。
ぺったりと垂れた髪の毛にも絵の具や口紅がついていてぼそぼそになっていた。
「ちがう。ミレーさんが勝手に連れてきたんだ。そろそろ新境地に入らないといけない。奈津ばかりじゃなくて、もっと複数の作品を同時に展示したほうがいいって」
彌広は私の気配に気付いていながら、顔を上げようとはしなかった。
「でも美鈴は、キャンバスが変わってあんたの筆の進みがよくなったって言ってたよ」
相性がよさそうだと、美鈴は単純に喜んでいるようだった。
勿論、私を追い詰める意図もあったのかもしれないけど。
「奈津と違いすぎて、正直はやく終わらせたかった。初めて会った人となに話していいかわからないし、きれいな人だったし、裸だし」
いや、私も裸だったんですけど。
彌広の言葉に突っ込みたいところは多々あるが、つまり。
「要するに、興奮して作業に集中できなかったということでよろしいですか?」
「ちがう」
私の呆れたような声に、彌広は即答した。
「そうじゃない。俺だって、キャンバスを奈津がやらなくて済むなら、そっちのほうがよかったんだ。……だから頑張って、あの人で我慢しようとしたのに」
何度となく練習を重ねても、納得のいく作品が出来上がらなかったという。
だけど美鈴は、相変わらず素晴らしいね、と満足していたらしい。
「〝ね、誰がキャンバスでも変わらないでしょ〟、って言ったミレーさんの顔を、ぶん殴ってやりたくなった。全然違うのに。全然描けてないのに、どこ見てんだ、って。そうしているうちに、自分がなにを描きたいのかわからなくなってきて、気付いたら青山ホールの個展の締め切りが過ぎてた……」
これは俗に言うスランプというやつだろうか。
私は思わず、彌広の頭をよしよしと子供にするように撫でていた。
私が知らないところで、この幼馴染は相当なプレッシャーを感じていたのだ。
「奈津は奈津で、急にキスしてきたと思ったら来てくれなくなるし。相談したいことや話したいこと、聞いてほしいことがたくさんあったのに、なんか気まずくて、……情けないけど、俺、奈津の会社や家の前まで行ったのに、インターホンも押せなくて」
え、きたの?
驚いて、彌広を撫でていた手を引っ込めてしまった。
その手を追うように、彌広がむくりと起き上がる。
「……ねえ、奈津」
一ヶ月ぶりの彌広と視線が交わる。黒々とした大きな黒目が、私を見ていた。
(なんか痩せたな)
見飽きるほど見ているはずの顔がなんだか新鮮に思えて、私は見とれながらそんなことを考えていた。
「俺はね、奈津をキャンバスにすること、本当はすごくすごく嫌だったんだ」
真っ直ぐ見つめられて言われると、結構傷付く。
思わず、ごめん、と言いそうになって。
「奈津をキャンバスにしたら、奈津の裸が他人の目に曝されることになる。俺の個展には下心を持ってやってくる男だっているのに、それがわかってて、奈津をキャンバスにしなきゃいけなかった俺の気持ちがわかる?本当はミレーさんにも見せたくないのに、仕事だからそうもいかない。そんな俺の気持ち、ねえ、奈津、わかってるの?」
全然わからない。なんだこの展開。
「奈津の裸を誰にも見せたくないのに、他の女の子に描きたいとは思わない。すっごく葛藤したんだ。悩んだんだ。絵を描きたい、でも、奈津をキャンバスにはしたくない。でも描きたい……そのうち訳がわからなくなってきて、奈津の裸も見れるし、奈津の体になら、きっといい絵が描けると思って、奈津の提案を飲んだ。結局俺は、どっちも選べなかったんだ。奈津も、絵も、どちらか一方を取ることなんかできなかった」
彌広の腹部には、あの日の口紅のような赤でなにかを描きなぐった跡があった。
それに注目していた私の頬を、彌広がさらうように引き寄せる。爪の隙間という隙間に絵の具が詰まっている十本の指が、私の両頬を固定した。
「ずっと昔から好きだった女の子の裸に絵を描いてた俺の気持ちが、わかる?」
鼻先がくっつきそうな距離で、彌広が囁く。
私はなにを言えばいいのかわからぬまま、何故か彌広の股間を凝視していた。
「だって、彌広、私がどんなポーズしても、全然勃たなかったじゃん……」
「俺が平然としてたと思うの?無我の境地で描いてたんだよ。俺だってインドでやった修行がここで役立つとは思ってもみなかった。それでもだめなら、センタータン噛んで痛みでやり過ごした。そのために開けたんだし」
インドの修行?センタータン?
「え、待って、なにこれ、どうなってるの?」
混乱してきた。
「混乱したままでいいから、聞いて、奈津」
いやだめでしょ。ちゃんと冷静になってから聞くから、時間ちょうだいよ。
「ねえ、奈津。お願い、戻ってきて」
戻ってきてもなにも、追い出されたのはむしろ私なのでは。
彌広の懇願に、私はどう反応すればいいのかわからない。
「……あのさ」
とりあえず、呼びかけてみる。
「うん」
彌広は律儀に、真っ直ぐ私と見つめ合ったまま、返事をした。
その凪いだ表情を見ていると、逆に恥ずかしくなってくる不思議。乳首も股間も恥毛も見られておきながら、まだ恥ずかしいとは。
「私も、彌広のこと、す、すす、好きなんだよ」
「知ってる。キスしてくれたから」
決死の告白にあっさりと返されて、私の脳内火山は噴火寸前である。
「だ、だってあの時、彌広逃げたじゃん……」
そうだ、あの時、少しでもきちんと話し合っていれば、こうはならなかった気がする。
私が責めると、彌広は拗ねたように唇を引き結んだ。
「好きな女に裸で馬乗りされてキスされたら……俺、逃げるしかないじゃん」
逃げるなよ、とは突っ込めなかった。
私が彌広の立場だったら、やっぱり逃げてしまっていたかもしれない。キスで股間が反応したということは、無我の境地も宇宙の彼方に吹き飛んでしまっていたわけだ。
「でも、逃げなくていいっていうなら、もう、逃げないけど」
そう言って、彌広の目が妖しく光る。
え、と声を上げる前に、私は畳の上に押し倒されていた。
小汚い板張りの天井に、埃の被った蛍光灯。少し影になった、彌広の顔。
「……あの、ここんとこ油断しまくってて、無駄毛ボーボーなんです」
「うん?じゃあ一緒にお風呂入る?気になるなら剃ってあげる」
「え、いや、あの」
「でも、ちょっと待って」
言って、彌広はそこらに転がっていた口紅を無造作に手に掴んだ。
潰れた先端、ロゴの消えた青いケース。
(あ、あのときの)
できればシャネルがよかった……と、思う間もなく、彌広の手が私の服をひっぺがした。
薄手のシャツを遠慮なしに脱がして、さらにはブラまで外そうとする。外そうとして、失敗して、何度か繰り返して、やっとホックが外れた。
「……慣れてないんだ」
「……そこ突っ込むなよ」
「あっちで、金髪の美人とやりまくってんのかと思ってた」
「期待を裏切って悪いけど、俺まだ童貞なんですよね」
「は!?」
「奈津も処女でしょ?俺が童貞なのに、奈津が非処女なわけがない」
それはどこの理屈だ?
(ていうか、童貞があの状態で反応しないって……インド、なんて恐ろしい国)
上半身だけ裸になった私に、彌広は馬乗りになった。
心臓がとくとくと脈打っている左乳房の下。その位置を確かめるように手で撫でて、持っていた口紅をぬるぬる動かし始める。私の体温と皮膚との摩擦で、徐々に口紅がとろりと溶けていくような柔らかさになった。
(……いや、溶けるは言い過ぎた。寧ろ溶けそうなのは、私の心臓のほうだ)
彌広は私の心臓の上に、一心不乱になにかを描いている。
気付いたときには持っていた口紅が筆になり、たまにチークになったりした。その色はマットな赤からヌーディーカラーになり、グリーンのカラーマスカラが出てきたかと思えば、けぶるようなオレンジになったりする。
「奈津が俺にキスしてきたときの赤い口紅が、頭から離れなくて」
自分の体に試し描きして、これじゃない、あれでもない、ちがう、ちがう、やっぱり奈津じゃないとだめだ、という結論に至ったらしい。なんだそれ恥ずかしいな。
(なに描いてんだろ)
彌広はやっぱりむき出しの乳房には視線すらさ迷わさず、ただ無心に手を動かしている。
けれどその視線は、今まで見たこともないくらい熱っぽくて、どこか焦っているようだった。
はやく、はやく、はやく――。
(早く描き終わってよ、彌広)
そして確認しよう。お互いのこと、お互いの想い、お互いの体、お互いの色。
やがて彌広がふうと息を吐いて、無言で私を立つよう促した。
私を立ち上がらせておきながら、彌広は窺うように座り込んで私を見上げている。
「……心臓?」
首を傾けて自分の左乳房の下を見ると、心臓が描いてあった。まるでそこだけ皮膚が透けて、本物の心臓が覗いているような錯覚に陥るほど、リアルだ。
「うん。頂戴」
さくっと答えると、彌広は猫がする背伸びのようにしなやかな動きで膝立ちになった。
そうして私のむき出しの腰に手を回したかと思うと、大口開けてその心臓に喰らいつく。
(う、わ)
ど、と勢いに押されて、壁紙がやぶれた壁に押し付けられる。逃げ場がなくなったことをいいことに、彌広は更に体重をかけてきた。
(あれ、デジャブ……)
一ヶ月前にも、これの逆バージョンをやった気がする。
彌広の舌が私の体に描かれた心臓をべろべろ舐めて、溶けた口紅がついた歯でがぶがぶ噛んで、文字通り、〝ちょうだい〟している。
くすぐったいのに、猛烈にきもちいい。
彌広が私の〝心臓〟を食べ終わる頃には、私は首を仰け反らせて感じまくっていた。
顔を上げた彌広の口周りは、食人鬼もかくや、という状態になっている。
様々な色が混じった赤い汚れが、彌広の顔を妙にだらしなく見せている。けれどそのだらしなさが、異様にいやらしい。
(あんたも化粧したみたい)
そうして私は、その赤い化粧に吸い寄せられるようにして、彌広の唇に喰らいついた。