脈打つルージュ
脈打つルージュ END
「あ」
「げ」
錆びた蝶番が鳴ったかと思ったら、狭い玄関口に美鈴が立っていた。
一ヶ月以上前と同じ声を上げたが、今度は吐いた言葉が逆だ。
「あ」が私で、「げ」が美鈴。
美鈴は気まずそうに視線を逸らすと、持っていたビニール袋をそっと床に下ろした。そうしてそろそろと部屋に上がってくると、部屋の端で正座する。そのまま土下座してくれるかと思ったが、そこまではさすがにしてくれなかった。
裸のままうつ伏せで横になっている私は、ただ視線だけを美鈴に向ける。美鈴からだと、私の背中と尻しか見えない。とはいえ、今は蔦が絡んだレンガの絵が描いてあるので、逃げ出すほどの羞恥心はない。一ヶ月休業していたとはいえ、私は彌広のキャンバス。慣れっこである。ちなみに彌広は風呂に行った。
「……どうして、ここにいるんですか、あんた」
美鈴が視線を逸らしながら、かたい声で言う。
「見てわかりませんか。キャンバスやってるんですけど」
いつもなら、私の体の絵を無遠慮に見つめてくる目がない。どうした、殊勝だな。
私の言葉に、美鈴は膝に置いた拳にぎゅっと力を込めた。そうしてやはり視線を落としたまま、拗ねたように続ける。
「……彌広は、やっぱりあんたを選んだんですね」
「やっぱりって?」
「……奈津さんは危険だ」
はあ?
とりあえず、今この状態で自由になるのは顔だけなので、首を上げて美鈴を睨んでみる。
「知らないんですか?彌広の絵は、あんたに左右されるんですよ。なにが作用しているか知りませんけど、あんたの様子がおかしいと彌広の画風も微妙に変わる。あんたの体調や気持ちを、彌広は敏感に感じ取ってそれがそのまま筆に出る。俺はそれが怖かった。あんたみたいな執念の塊みたいな女が、彌広に必要とされていると自覚したら、一体どういう態度に出るか想像したくもなかった。それが彌広に良かれ悪かれ影響を及ぼすのは、目に見えているから」
お前の中で私は一体どんな悪女なんだ。
あまりの言いように、腹が立つというより呆れるばかりだ。
「だからあんたを早く引き離したかったんだ。あんたが彌広に脈のない片思いをしているうちに。彌広があんたに片思いしていると思い込んでいるうちに」
で、満を持してそれを実行したら見事に失敗したと。
「あんたがここに来なくなっても、彌広は絵を描き続けたよ。相変わらずいい絵を、新しいキャンバス相手に描き続けた。それなのに、急に、もう描きたくないと言い出して」
美鈴の拳は、今にもぱーんと破裂しそうなほどの力が込められている。敏腕マネージャーとして、彌広の一ファンとして、描くことをやめてしまった彌広を見るのは辛かっただろう。大きな個展も目の前に迫っていたのだから、その焦燥やいかばかりか。いや、自業自得だけどな。ざまあみろ。
「くそ……彌広は、もっともっと上に行けるはずだったのに」
おいおいちょっと待て。なんなのこの人、超ネガティブになってません?
「彌広さん、あんたのクソマネがこんなこと言ってますけど」
丁度風呂から出てきた彌広を見ると、肩を竦めて苦笑していた。いやそれはいいけど、パンツくらい履いてこいよ。
「個展逃してからずっとこんな調子なんだよね。俺のこともっと過大評価してると思ってたのに、青山ホールくらいでお通夜モードになってさ」
「だよねえ。世界の彌広画伯が、青山ホールくらいでついた傷を取り戻せないと思ってるんですかねえ、そこのクソマネは」
彌広と一緒にここぞとばかりに美鈴を攻撃してみる。
すみません青山ホールさん、青山ホールくらいで、とかぬかしてすみません。本当は私達、あなたを逃してめっちゃ後悔してます。
美鈴は私と彌広に責められて、今にも泣きそうになっている。サドは打たれ弱いってほんとなんだな。
「偉そうに奈津を追い出したときの気迫はどこいっちゃったの?償うつもりで精一杯頑張ってよ、ミレーさん」
「そうだよクソマネ。あんた私を哀れんでる必要なくなったんだから、その空いた時間使ってさっさと次の仕事とってこいよ」
私が言い終わらないうちに、美鈴は勢いよく立ち上がった。彌広を押しのけて玄関に歩いていく。
「……次の個展で、お前達の関係を公表してやる。その話題と世間の度肝を抜く新作で立て直しする。奈津さん、あんたの名前もそのうち発表してやるから、覚悟しとけよ」
肩越しに私を睨みつけて美鈴は部屋を出て行ってしまった。
美鈴が置いていったコンビニの袋からは、彌広の好きなプリンが覗いている。
「……いいの、奈津」
素っ裸の彌広が、真剣な声で私に尋ねた。
「……俺はすっごくいやなんだけど」
しかし私の返答を聞かず、不機嫌そうに呟く。
「なんで?」
「今までとは違って、〝奈津の裸〟として見られるだろ」
「今更じゃん……」
起き上がって、彌広の傍に寄った。眉間に皺が刻まれている。
「奈津は男心がわかってない」
わかってないのはあんたもよ。
私は転がっていたあの青いケースの口紅を掴んで、彌広の胸にハートマークを描いた。
彌広のようにリアルな心臓が描ければよかったのだが、生憎私に絵心はない。
「正体ばらすくらいであんたの傍にいられるなら、安いもんだよ」
そうして描きあげたいびつな心臓《ハート》に、私はそっと歯を立てた。
END