一途の花
俺たちは、夏の日に付き合った。
律の二十歳の誕生日、ふたりでお祝いした帰りに、突然手を握られた。びっくりして戸惑っていると、顔を真っ赤にさせた律が、俺に言った。「ずっと好きだった」と。その先が言えないくらい緊張してて、唇を震わせた。
俺は困惑しながらも、握られた手に力を込めて。
「じゃあ…宜しくってことで」
律の告白を受け入れた。
そのときは完全に勢いと空気に流されたけど、あまりにも必死に俺のこと好きだって言う律が、誰よりも何よりも可愛くて、情もあったけど、それ以上に、こんな子と付き合ったら幸せだろうなって、淡い想像ができた。要は、俺もどこかで、律が好きだったのだ。ただ決定的な機会がなかっただけで。
だけど、付き合ってからの俺たちは、すぐに新密度を高めていった。
すぐに一緒に住んで、揃いのアクセサリーを身につけ、寝るときは抱き合いながら、時間があるときはメールや電話で繋がってて。どれだけ熱々のカップルなんだよって突っ込んでしまうくらい、仲むつましく交際を続けていた。時間が経ってからも熱々っぷりは変わらなくて、それこそ、俺の律への思いは、日々高くなっていった。恐らく律も、俺への愛を確かにしていった。
ずっと一緒にいたんだ。
「今日のご飯はカレーです。好き嫌いしないようにしましょう」
「う…でもこのにんじんは退けていい?」
「だーめ。篤の野菜不足は好き嫌いが多いせいです。ちゃんと全部食べましょう!」
「えーん、律の鬼ー!」
些細なことでも、笑っていた。
いや、律がそこにいたから、些細なことですら、笑うことができた。どんな小さな出来事も、どんなツライことも。どんな…困難も。律がいるからこそ、乗り越えてこれたのに。
「篤、あたし、結婚することになった」
律自ら、俺にとどめを指してきた。
式直前なのに花嫁も忙しいようで、招待客ひとりひとりに挨拶して回る律の姿があった。その顔はもう、俺の知る律ではない。甘えっ子でワガママで泣き虫な、俺に守られていた女の子ではない。ため息が、自然と漏れる。
「大丈夫?」
そんな俺に気づき、仲間の瀬野太一(せのたいち)が屈みこむ。俯きながら壁に寄りかかる俺の顔を、心配そうに覗きこんできた。黒目がちの澄んだ瞳が、俺を見つめていた。
「平気だよ。大丈夫。いつかこんな日が来るって、わかってたし」
「こんな日って…結婚?」
「律みたいな人間がずっと独身なんて、そんなのミステリーだよ。あんなに家事ができて常識人で真面目ないい女、ひとりにしてるなんてもったいないよ」
「それ、遠まわしの自慢?」
「自慢だよ。あんないい女が、俺のものだったなんて」
過去形だけど。
律は確かに、俺の傍にいた。間違いなく、俺の腕の中にいたんだ。そっと、囁くように愛を語ると真っ赤になって、俺の腕にしっかりとつかまっていた。可愛い可愛い、普通の女の子だった。
瀬野につられて、俺も脚を曲げ、低い姿勢になった。同じ高さになって、また、瀬野は尋ねる。
「いつ別れたんだっけ?結構最近じゃなかった?」
「最近なのかなぁ。半年前って最近?」
瀬野は頭をかいて、あー…と考えたあと。
「普通のひとは半年でも最近っていわないけど、篤たちはほら、ずっと一緒にいたから、そう考えると、半年も最近な気がする。なんかついこの間まで、篤は律の家から学校通ってたイメージだし」
「そうね、同棲やめたのもそのくらいだからね。俺の今の部屋、モノなさすぎて困るんだよね。全部律の家置いてきちゃって」
「なんで置いてきたんだよ。不便じゃん、自分で買ったものくらい持って帰ってこいよ」
「うーん、そこはまた、微妙な心理があるのよ」
律の家に、俺の匂いを残しておきたかった。もしこの先、あの部屋に誰かが入っても、俺の気配に悩み苦しめばいいと、そう半ば本気で思っていた。別れて仲間になっても、律の唯一のひとでありたいと思っていた。そこだけは、誰にも負けたくなかった。別れてしまった時点でただの負け惜しみだけど。
そうまでして失いたくなかったのに、なぜ。
手を離してしまったのだろう。
「お、あれって律のお母さんじゃねぇ?こっちにまで挨拶に来たんだ」
俺が物思いに耽っていると、瀬野がある人物を見つけ、声をあげた。俺はその声の先を見つめ、唾を飲み込んだ。反射的に。
「丁寧なひとだね。相手の上司とかならともかく、今挨拶してるのって律の同級生だっけ?そのうち、俺らのとこにも来るかもな。あ、でも来ないか?俺らはだって、結婚決まったときに会ったしな」
結婚が決まってすぐ、律の婚約者と食事をした。仲間内には最初に紹介したかったようで、部内の人間と律の婚約者とで、簡単な食事会を行なった。そこには律の母親も出席していた。何かと迷惑をかけることもあると思うのでお願いしますと、そして、これからも宜しくお願いしますという、形だけの会だった。けれど、形だけどいっても、意味はあった。そう、その意味とは。瀬野が、律の母親を注目してしまう理由とは。
「顔色はいいね。よかった、やっぱり娘の結婚式は嬉しいよね」
「だろうね…」
律の母親はずっと、体調を崩していた。
元々身体の弱いひとだったようで、年とともに、抵抗力がなくなったのだろう。やせ細って、痛々しかった。そんな母親も、律の結婚はとても喜ばしいことだったようで、その『形だけの会』でも、彼女だけは、涙を浮かべ、俺たちに感謝の言葉をくれた。その印象が強く残っているので、瀬野も、律の母親の存在は気になっていたようだ。いや、瀬野だけではなく、きっと、みんなも。
律の晴れ姿を、彼女に見せてあげることができて、それは、嬉しいことだった。
「おい、行儀悪いだろ」
俺たちの視線の先が、急に暗くなかった。目の前には、黒い高そうな靴と長い脚。辿るように見上げると、そこには、怪訝そうに顔を歪める芳賀翔(はがかける)が立っていた。
「疲れたならあっちに椅子あるから椅子に座れよ。地べたなんかに座るんじゃない」
母親かよって突っ込みを入れたかったが、これは俺たちの落ち度なので、何も言わず素直に立ち上がって、口を尖らせた。
「しゃがんでただけだよ」
子供か。
タカトシならそう突っ込んできそうな、俺の安っぽいボケに、翔ちゃんも当然ながら。
「子供じゃないんだから、もう少しちゃんとしろよ」
呆れている。まぁそこが自分のキャラなので、お咎めはないだろうけど。翔ちゃんはまた、ほらホコリついてると、俺の腰あたりを払ってくれた。そして、そんな俺たちを笑いながら見ていた瀬野は。
「あ、歩先輩たち発見!」
会場入りした女子水泳部OBご一行に気づき、駆け寄ってしまった。どうやら、よく懐いていた彼女らに会うことを楽しみにしていたようだ。素直で明るいやつだ。
「そうだ、篤、お前火持ってる?」
「火?」
瀬野がいなくなった途端、翔ちゃんは苦笑いで言った。
「あいつがタバコ駄目って言うからさ、最近我慢してたんだけど…一服しないか?外に喫煙スペースあったから」
瀬野の監視がなくなったのをいいことに、タバコを吸いに行こうと誘ってきた。本当に残念なヤツだなと思いつつ、俺は頷く。
「いいよ。俺も丁度吸いたかったし」
律と別れてから、酒とタバコの量が増えた。それもそうだろう、そうしないと、気が紛れなかった。俺は翔ちゃんに続き、会場の外にあるロビーの喫煙スペースへ向かった。ふかふかのソファの中央に、大きな灰皿があるその場所には、まだ、誰もいなかった。律の結婚式は会場を貸切にし内密に行われるので、控え室以外には、ひとが誰もいない。
ソファに腰を下ろし、脚を組みながらタバコを咥えた。向かい側に座る翔ちゃんも同じ動作だ。俺はポケットからライターを取り出し、自分のタバコに火をつけ、そして、翔ちゃんにその火を渡す。
「花婿さんさ、やっぱどことなく篤に似てるよな。雰囲気つーか、系統?」
「そう?俺はわかんないんだけど、でもそれ、瀬野も言ってた。なんか俺を大人にしたみたいだって」
「だからあんなにアッサリプロポーズ受けたのかもな。いくら親の言いつけっていっても一生のことだし、話、急だったし」
「その辺はきっと、律の父親の作戦でしょ。俺は律の家に入り浸ってて顔は割れてるし。それに、律は断れないよ。律の旦那さんの親、律の親父さんの恩人だしね」
「え、そうなの?」
「………知らなかったの?」
それは驚きだった。律の兄的役割の翔ちゃんが知らない情報を、俺が知っているということも。この結婚の最大の理由を、知らないということも。俺は大きく丸めた目を戻し、まつ毛を伏せた。ゆっくりと、そして、重いものを、少しずつ吐き出した。
「旦那さんがね、律のこと凄く気にいって…律の親父さんが食事会斡旋して、それで、ふたりは付き合うようになって…だから…」
だから。
それはまるで、仕組まれたかのような、シナリオで。
「ちょい待って。あれ?ふたりが別れたのって…?」
漸く、あることに気づいた翔ちゃん。混乱しつつ、懸命に整理しようと、翔ちゃんは強く瞼を下ろした。眉間にシワも寄せて。
俺はそんな翔ちゃんに、静かに言った。
「半年前だよ。みんなで年越ししたすぐ後だから」
「だよな?でもあれって確か…篤に好きなひとができたとか、浮気したとか、そんな感じだったよな?それに激怒して律から別れるって…?」
そう、みんなにはそう説明してある。そうしようって、俺が提案したのだ。そうすれば、誰も悪者にならなくてすむ。俺のことはきっと、誰も悪く言わないから。
律と、ある人物を守るために作られた、優しい嘘だ。
そう、誰も悪くない。
優しい優しい、結末だ。
「―――律のお母さんが倒れた日って、年末だったよな?」
不揃いな数値が、ひとつに揃った。
俺たちは、もう、終焉を迎えたのだ。
律の二十歳の誕生日、ふたりでお祝いした帰りに、突然手を握られた。びっくりして戸惑っていると、顔を真っ赤にさせた律が、俺に言った。「ずっと好きだった」と。その先が言えないくらい緊張してて、唇を震わせた。
俺は困惑しながらも、握られた手に力を込めて。
「じゃあ…宜しくってことで」
律の告白を受け入れた。
そのときは完全に勢いと空気に流されたけど、あまりにも必死に俺のこと好きだって言う律が、誰よりも何よりも可愛くて、情もあったけど、それ以上に、こんな子と付き合ったら幸せだろうなって、淡い想像ができた。要は、俺もどこかで、律が好きだったのだ。ただ決定的な機会がなかっただけで。
だけど、付き合ってからの俺たちは、すぐに新密度を高めていった。
すぐに一緒に住んで、揃いのアクセサリーを身につけ、寝るときは抱き合いながら、時間があるときはメールや電話で繋がってて。どれだけ熱々のカップルなんだよって突っ込んでしまうくらい、仲むつましく交際を続けていた。時間が経ってからも熱々っぷりは変わらなくて、それこそ、俺の律への思いは、日々高くなっていった。恐らく律も、俺への愛を確かにしていった。
ずっと一緒にいたんだ。
「今日のご飯はカレーです。好き嫌いしないようにしましょう」
「う…でもこのにんじんは退けていい?」
「だーめ。篤の野菜不足は好き嫌いが多いせいです。ちゃんと全部食べましょう!」
「えーん、律の鬼ー!」
些細なことでも、笑っていた。
いや、律がそこにいたから、些細なことですら、笑うことができた。どんな小さな出来事も、どんなツライことも。どんな…困難も。律がいるからこそ、乗り越えてこれたのに。
「篤、あたし、結婚することになった」
律自ら、俺にとどめを指してきた。
式直前なのに花嫁も忙しいようで、招待客ひとりひとりに挨拶して回る律の姿があった。その顔はもう、俺の知る律ではない。甘えっ子でワガママで泣き虫な、俺に守られていた女の子ではない。ため息が、自然と漏れる。
「大丈夫?」
そんな俺に気づき、仲間の瀬野太一(せのたいち)が屈みこむ。俯きながら壁に寄りかかる俺の顔を、心配そうに覗きこんできた。黒目がちの澄んだ瞳が、俺を見つめていた。
「平気だよ。大丈夫。いつかこんな日が来るって、わかってたし」
「こんな日って…結婚?」
「律みたいな人間がずっと独身なんて、そんなのミステリーだよ。あんなに家事ができて常識人で真面目ないい女、ひとりにしてるなんてもったいないよ」
「それ、遠まわしの自慢?」
「自慢だよ。あんないい女が、俺のものだったなんて」
過去形だけど。
律は確かに、俺の傍にいた。間違いなく、俺の腕の中にいたんだ。そっと、囁くように愛を語ると真っ赤になって、俺の腕にしっかりとつかまっていた。可愛い可愛い、普通の女の子だった。
瀬野につられて、俺も脚を曲げ、低い姿勢になった。同じ高さになって、また、瀬野は尋ねる。
「いつ別れたんだっけ?結構最近じゃなかった?」
「最近なのかなぁ。半年前って最近?」
瀬野は頭をかいて、あー…と考えたあと。
「普通のひとは半年でも最近っていわないけど、篤たちはほら、ずっと一緒にいたから、そう考えると、半年も最近な気がする。なんかついこの間まで、篤は律の家から学校通ってたイメージだし」
「そうね、同棲やめたのもそのくらいだからね。俺の今の部屋、モノなさすぎて困るんだよね。全部律の家置いてきちゃって」
「なんで置いてきたんだよ。不便じゃん、自分で買ったものくらい持って帰ってこいよ」
「うーん、そこはまた、微妙な心理があるのよ」
律の家に、俺の匂いを残しておきたかった。もしこの先、あの部屋に誰かが入っても、俺の気配に悩み苦しめばいいと、そう半ば本気で思っていた。別れて仲間になっても、律の唯一のひとでありたいと思っていた。そこだけは、誰にも負けたくなかった。別れてしまった時点でただの負け惜しみだけど。
そうまでして失いたくなかったのに、なぜ。
手を離してしまったのだろう。
「お、あれって律のお母さんじゃねぇ?こっちにまで挨拶に来たんだ」
俺が物思いに耽っていると、瀬野がある人物を見つけ、声をあげた。俺はその声の先を見つめ、唾を飲み込んだ。反射的に。
「丁寧なひとだね。相手の上司とかならともかく、今挨拶してるのって律の同級生だっけ?そのうち、俺らのとこにも来るかもな。あ、でも来ないか?俺らはだって、結婚決まったときに会ったしな」
結婚が決まってすぐ、律の婚約者と食事をした。仲間内には最初に紹介したかったようで、部内の人間と律の婚約者とで、簡単な食事会を行なった。そこには律の母親も出席していた。何かと迷惑をかけることもあると思うのでお願いしますと、そして、これからも宜しくお願いしますという、形だけの会だった。けれど、形だけどいっても、意味はあった。そう、その意味とは。瀬野が、律の母親を注目してしまう理由とは。
「顔色はいいね。よかった、やっぱり娘の結婚式は嬉しいよね」
「だろうね…」
律の母親はずっと、体調を崩していた。
元々身体の弱いひとだったようで、年とともに、抵抗力がなくなったのだろう。やせ細って、痛々しかった。そんな母親も、律の結婚はとても喜ばしいことだったようで、その『形だけの会』でも、彼女だけは、涙を浮かべ、俺たちに感謝の言葉をくれた。その印象が強く残っているので、瀬野も、律の母親の存在は気になっていたようだ。いや、瀬野だけではなく、きっと、みんなも。
律の晴れ姿を、彼女に見せてあげることができて、それは、嬉しいことだった。
「おい、行儀悪いだろ」
俺たちの視線の先が、急に暗くなかった。目の前には、黒い高そうな靴と長い脚。辿るように見上げると、そこには、怪訝そうに顔を歪める芳賀翔(はがかける)が立っていた。
「疲れたならあっちに椅子あるから椅子に座れよ。地べたなんかに座るんじゃない」
母親かよって突っ込みを入れたかったが、これは俺たちの落ち度なので、何も言わず素直に立ち上がって、口を尖らせた。
「しゃがんでただけだよ」
子供か。
タカトシならそう突っ込んできそうな、俺の安っぽいボケに、翔ちゃんも当然ながら。
「子供じゃないんだから、もう少しちゃんとしろよ」
呆れている。まぁそこが自分のキャラなので、お咎めはないだろうけど。翔ちゃんはまた、ほらホコリついてると、俺の腰あたりを払ってくれた。そして、そんな俺たちを笑いながら見ていた瀬野は。
「あ、歩先輩たち発見!」
会場入りした女子水泳部OBご一行に気づき、駆け寄ってしまった。どうやら、よく懐いていた彼女らに会うことを楽しみにしていたようだ。素直で明るいやつだ。
「そうだ、篤、お前火持ってる?」
「火?」
瀬野がいなくなった途端、翔ちゃんは苦笑いで言った。
「あいつがタバコ駄目って言うからさ、最近我慢してたんだけど…一服しないか?外に喫煙スペースあったから」
瀬野の監視がなくなったのをいいことに、タバコを吸いに行こうと誘ってきた。本当に残念なヤツだなと思いつつ、俺は頷く。
「いいよ。俺も丁度吸いたかったし」
律と別れてから、酒とタバコの量が増えた。それもそうだろう、そうしないと、気が紛れなかった。俺は翔ちゃんに続き、会場の外にあるロビーの喫煙スペースへ向かった。ふかふかのソファの中央に、大きな灰皿があるその場所には、まだ、誰もいなかった。律の結婚式は会場を貸切にし内密に行われるので、控え室以外には、ひとが誰もいない。
ソファに腰を下ろし、脚を組みながらタバコを咥えた。向かい側に座る翔ちゃんも同じ動作だ。俺はポケットからライターを取り出し、自分のタバコに火をつけ、そして、翔ちゃんにその火を渡す。
「花婿さんさ、やっぱどことなく篤に似てるよな。雰囲気つーか、系統?」
「そう?俺はわかんないんだけど、でもそれ、瀬野も言ってた。なんか俺を大人にしたみたいだって」
「だからあんなにアッサリプロポーズ受けたのかもな。いくら親の言いつけっていっても一生のことだし、話、急だったし」
「その辺はきっと、律の父親の作戦でしょ。俺は律の家に入り浸ってて顔は割れてるし。それに、律は断れないよ。律の旦那さんの親、律の親父さんの恩人だしね」
「え、そうなの?」
「………知らなかったの?」
それは驚きだった。律の兄的役割の翔ちゃんが知らない情報を、俺が知っているということも。この結婚の最大の理由を、知らないということも。俺は大きく丸めた目を戻し、まつ毛を伏せた。ゆっくりと、そして、重いものを、少しずつ吐き出した。
「旦那さんがね、律のこと凄く気にいって…律の親父さんが食事会斡旋して、それで、ふたりは付き合うようになって…だから…」
だから。
それはまるで、仕組まれたかのような、シナリオで。
「ちょい待って。あれ?ふたりが別れたのって…?」
漸く、あることに気づいた翔ちゃん。混乱しつつ、懸命に整理しようと、翔ちゃんは強く瞼を下ろした。眉間にシワも寄せて。
俺はそんな翔ちゃんに、静かに言った。
「半年前だよ。みんなで年越ししたすぐ後だから」
「だよな?でもあれって確か…篤に好きなひとができたとか、浮気したとか、そんな感じだったよな?それに激怒して律から別れるって…?」
そう、みんなにはそう説明してある。そうしようって、俺が提案したのだ。そうすれば、誰も悪者にならなくてすむ。俺のことはきっと、誰も悪く言わないから。
律と、ある人物を守るために作られた、優しい嘘だ。
そう、誰も悪くない。
優しい優しい、結末だ。
「―――律のお母さんが倒れた日って、年末だったよな?」
不揃いな数値が、ひとつに揃った。
俺たちは、もう、終焉を迎えたのだ。