Powder Snow
部活が終わった後の帰り道、遠矢はひとり家路を歩いていた。足元は雪が凍って滑りやすくなっている。
遠矢はそこで、千秋のことを考えていた。
千秋に出会ったのは、中学3年生の春、初めてクラスが一緒になったからだった。
千秋のことは有名なので知っていた。
入学してすぐに、男子の間で『可愛い子がいる』と評判になったのだ。
千秋は噂どおりの美少女で、初めて言葉を交わしたときは少し緊張した。遠矢の隣にいた啓一は既に千秋と顔見知りだったようで、普通に会話を楽しんでいた。
そんな千秋を異性として意識しだしたのは、ゴールデンウィーク直前の4月の末だった。
クラスでちょっとした事件があったのだ。
「武山、さっき便所で吐いてただろ!きったねぇなぁ!」
クラスで目立たない部類に入る武山というクラスメートが、昼休み、トイレで嘔吐していたのを、同じクラスで乱暴者の筒井が見ていたのだ。
筒井はいわゆる『不良』というやつで、クラスの中でも浮いていた。しかも怒ると男女関わらず暴力に走るため、怖がっているクラスメートもいた。
そんな筒井が今回ターゲットにしたのが、武山だった。
筒井は日頃のストレスを発散するように、武山のお腹を蹴った。調子の悪い武山はすぐその場に崩れ、また、嘔吐した。
その様子を見た他のクラスの人間が教師を呼んできたが、事態はそれで終わらなかった。余程何か気に障ることがあったのか、筒井は教師にまで乱暴を働こうと、腕を振り上げた。
やってきたのが貧相な数学教師だったので、その教師も筒井を止めることはできず、筒井のパンチが当たろうとした。
そのときだった、筒井の前に、女の子が飛び出してきた。
その女の子が、千秋だった。
「やめなさいよ、もう。武山くんだって調子悪いんだし、早く保健室連れていってあげないと」
「あん?」
筒井は千秋に顔を近づけると、横目でギロリと睨み付けた。
「お前、俺に逆らうのか?」
「逆らうもなにも、これ以上騒ぎが大きくなったら大変なのは筒井くんでしょ?先生なんて殴ったら停学どころか退学だよ。あと1年で高校生なのに、もったいないじゃない」
「………あ、ああ」
千秋の意見は正論だった。
あまりにも物怖じしない千秋に、筒井は呆気に取られていた。
その隙に、千秋は武山の傍に行き、武山にハンカチを渡した。「立てる?」と言って武山をそっと立たせると、そのまま一緒に保健室まで行ってしまったのだ。
あんなに暴れていた筒井も何が起きたのか分からず、立ち尽くしていた。
その異様な光景を前にして、クラスメートみんなが驚いたことだろう。
あの筒井に、小さくて女の子らしい千秋が食ってかかったのだ。
「すげぇ」
と、思わず零してしまった。
遠矢は武山が嘔吐した汚物をトイレットペーパーで片付けると、それをゴミ箱に捨てた。啓一も雑巾を持ってきて、手伝った。すぐに担任の教師がやって来て、筒井は事情を説明しろと連行されてしまったが、この現場を一番混乱しているのは筒井かもしれない。
少しして千秋が教室にもどると、女子が千秋を囲った。
『凄い!』『かっこいい!』の賛辞ばかりだったが、何もできなかった男子数名は不甲斐なさでいっぱいだった。
その帰り道、遠矢は珍しく部活が休みなので早く帰路を歩くことになった。
その前方で、明るい髪を腰の辺りまで伸ばした女の子が歩いていた。
すぐにそれが千秋だとわかり、遠矢は早足で追いかけた。
「おい、小松!」
千秋の華奢な肩を掴むと、ふわっといい匂いがした。千秋は驚いて目を丸くした。
「えっと…瀬名くん?」
「あ、ああ。そう、瀬名、遠矢」
「啓ちゃんと一緒にいるひとだよね」
「そう、それ。ちょっと一緒に帰っていいかな」
「どうぞ」
千秋はにっこりと笑った。
遠矢の胸の中で、何かがモヤモヤと熱くなっていた。
ふたりは並んで家路を歩いた。
「さっき、凄かったね。俺、なんもできなかったのに…」
「さっき?」
「筒井と武山の…」
「ああ、あれ?あれはね、筒井くんが絶対にあたしに乱暴しないってわかってたからできたのよ。あたしと筒井くん、小学校から一緒だし、昔はよく一緒に遊んだのよ」
ケロリと言い放つ千秋に、遠矢は目を丸くした。
「いやいや、それでもすげぇって。あの、筒井だぜ?」
「あのときは余程ムカついてたみたいだったけど、普段はあそこまでじゃないのよ。えっと、ほら、バスケ部の、前原くん。彼とかとはバイクの話で気が合うみたいで、たまに話してるわよ」
「浩輔と?」
「見かけより、悪くなってこと。ちょっとだけツンツンしてるけど」
「そっかぁ、そうなのか。今度話しかけてみるよ」
「うん、そうしてそうして」
千秋は嬉しそうに白い歯を見せた。遠矢の心は乱れていた。
ドキドキと、鼓動が煩く響く。
「でもやっぱり、かっこいいよ。みんなが引いてる中、割り込めるなんて。小松さん、女の子っぽいのに」
素直な意見だった。
「初めて会う、女の子だったな」
その言葉に、千秋は照れくさそうに顎のあたりを指で突いた。
「そんな大層なものじゃないんだけど、な」
「あ、ごめん。気を悪くしたら…」
女の子慣れしていない遠矢は、その表情が困っているように見えた。焦って弁解した。
「ううん、違うの。みんな褒めてくれるから、テレちゃって。でも、瀬名くんがそう言ってくれて、嬉しいよ。ありがとう」
千秋は極上の笑顔を遠矢に見せた。
遠矢はこのとき、初めて異性を抱きしめたいと思った。
それからも千秋は自分が正しいと思うことには一歩も引かず、男子だろうか先生だろうが、意見を曲げたりしなかった。
千秋の容姿からは想像できない気の強い性格は、千秋を狙っていた幾多の男たちを諦めさせることに成功していた。しかし、遠矢だけは違った。
千秋の負けん気の強さと、時々見せるあどけなさのギャップが遠矢には眩しく、可愛くも思えた。
遠矢はそのとき、中学1年生のときから付き合っていた彼女がいたのだが、千秋を目で追っている自分に気づき、彼女に別れを切り出した。
「可愛かったのにもったいない。泣いてたよ」
と、散々啓一には言われたが、理由など言えず、ただ「情しかなかったからさ、その方が彼女に悪いし」と、歯切れの悪い説明をした。
中学3年生の夏目前。
瀬名遠矢は、小松千秋に恋をしたのだ。
しかしそれは些細なキッカケなだけで、遠矢が千秋に愛しさを覚えていったのは、積み重ねられた思い出と、誰にでも平等に振りまかれた千秋の笑顔だった。
遠矢はそこで、千秋のことを考えていた。
千秋に出会ったのは、中学3年生の春、初めてクラスが一緒になったからだった。
千秋のことは有名なので知っていた。
入学してすぐに、男子の間で『可愛い子がいる』と評判になったのだ。
千秋は噂どおりの美少女で、初めて言葉を交わしたときは少し緊張した。遠矢の隣にいた啓一は既に千秋と顔見知りだったようで、普通に会話を楽しんでいた。
そんな千秋を異性として意識しだしたのは、ゴールデンウィーク直前の4月の末だった。
クラスでちょっとした事件があったのだ。
「武山、さっき便所で吐いてただろ!きったねぇなぁ!」
クラスで目立たない部類に入る武山というクラスメートが、昼休み、トイレで嘔吐していたのを、同じクラスで乱暴者の筒井が見ていたのだ。
筒井はいわゆる『不良』というやつで、クラスの中でも浮いていた。しかも怒ると男女関わらず暴力に走るため、怖がっているクラスメートもいた。
そんな筒井が今回ターゲットにしたのが、武山だった。
筒井は日頃のストレスを発散するように、武山のお腹を蹴った。調子の悪い武山はすぐその場に崩れ、また、嘔吐した。
その様子を見た他のクラスの人間が教師を呼んできたが、事態はそれで終わらなかった。余程何か気に障ることがあったのか、筒井は教師にまで乱暴を働こうと、腕を振り上げた。
やってきたのが貧相な数学教師だったので、その教師も筒井を止めることはできず、筒井のパンチが当たろうとした。
そのときだった、筒井の前に、女の子が飛び出してきた。
その女の子が、千秋だった。
「やめなさいよ、もう。武山くんだって調子悪いんだし、早く保健室連れていってあげないと」
「あん?」
筒井は千秋に顔を近づけると、横目でギロリと睨み付けた。
「お前、俺に逆らうのか?」
「逆らうもなにも、これ以上騒ぎが大きくなったら大変なのは筒井くんでしょ?先生なんて殴ったら停学どころか退学だよ。あと1年で高校生なのに、もったいないじゃない」
「………あ、ああ」
千秋の意見は正論だった。
あまりにも物怖じしない千秋に、筒井は呆気に取られていた。
その隙に、千秋は武山の傍に行き、武山にハンカチを渡した。「立てる?」と言って武山をそっと立たせると、そのまま一緒に保健室まで行ってしまったのだ。
あんなに暴れていた筒井も何が起きたのか分からず、立ち尽くしていた。
その異様な光景を前にして、クラスメートみんなが驚いたことだろう。
あの筒井に、小さくて女の子らしい千秋が食ってかかったのだ。
「すげぇ」
と、思わず零してしまった。
遠矢は武山が嘔吐した汚物をトイレットペーパーで片付けると、それをゴミ箱に捨てた。啓一も雑巾を持ってきて、手伝った。すぐに担任の教師がやって来て、筒井は事情を説明しろと連行されてしまったが、この現場を一番混乱しているのは筒井かもしれない。
少しして千秋が教室にもどると、女子が千秋を囲った。
『凄い!』『かっこいい!』の賛辞ばかりだったが、何もできなかった男子数名は不甲斐なさでいっぱいだった。
その帰り道、遠矢は珍しく部活が休みなので早く帰路を歩くことになった。
その前方で、明るい髪を腰の辺りまで伸ばした女の子が歩いていた。
すぐにそれが千秋だとわかり、遠矢は早足で追いかけた。
「おい、小松!」
千秋の華奢な肩を掴むと、ふわっといい匂いがした。千秋は驚いて目を丸くした。
「えっと…瀬名くん?」
「あ、ああ。そう、瀬名、遠矢」
「啓ちゃんと一緒にいるひとだよね」
「そう、それ。ちょっと一緒に帰っていいかな」
「どうぞ」
千秋はにっこりと笑った。
遠矢の胸の中で、何かがモヤモヤと熱くなっていた。
ふたりは並んで家路を歩いた。
「さっき、凄かったね。俺、なんもできなかったのに…」
「さっき?」
「筒井と武山の…」
「ああ、あれ?あれはね、筒井くんが絶対にあたしに乱暴しないってわかってたからできたのよ。あたしと筒井くん、小学校から一緒だし、昔はよく一緒に遊んだのよ」
ケロリと言い放つ千秋に、遠矢は目を丸くした。
「いやいや、それでもすげぇって。あの、筒井だぜ?」
「あのときは余程ムカついてたみたいだったけど、普段はあそこまでじゃないのよ。えっと、ほら、バスケ部の、前原くん。彼とかとはバイクの話で気が合うみたいで、たまに話してるわよ」
「浩輔と?」
「見かけより、悪くなってこと。ちょっとだけツンツンしてるけど」
「そっかぁ、そうなのか。今度話しかけてみるよ」
「うん、そうしてそうして」
千秋は嬉しそうに白い歯を見せた。遠矢の心は乱れていた。
ドキドキと、鼓動が煩く響く。
「でもやっぱり、かっこいいよ。みんなが引いてる中、割り込めるなんて。小松さん、女の子っぽいのに」
素直な意見だった。
「初めて会う、女の子だったな」
その言葉に、千秋は照れくさそうに顎のあたりを指で突いた。
「そんな大層なものじゃないんだけど、な」
「あ、ごめん。気を悪くしたら…」
女の子慣れしていない遠矢は、その表情が困っているように見えた。焦って弁解した。
「ううん、違うの。みんな褒めてくれるから、テレちゃって。でも、瀬名くんがそう言ってくれて、嬉しいよ。ありがとう」
千秋は極上の笑顔を遠矢に見せた。
遠矢はこのとき、初めて異性を抱きしめたいと思った。
それからも千秋は自分が正しいと思うことには一歩も引かず、男子だろうか先生だろうが、意見を曲げたりしなかった。
千秋の容姿からは想像できない気の強い性格は、千秋を狙っていた幾多の男たちを諦めさせることに成功していた。しかし、遠矢だけは違った。
千秋の負けん気の強さと、時々見せるあどけなさのギャップが遠矢には眩しく、可愛くも思えた。
遠矢はそのとき、中学1年生のときから付き合っていた彼女がいたのだが、千秋を目で追っている自分に気づき、彼女に別れを切り出した。
「可愛かったのにもったいない。泣いてたよ」
と、散々啓一には言われたが、理由など言えず、ただ「情しかなかったからさ、その方が彼女に悪いし」と、歯切れの悪い説明をした。
中学3年生の夏目前。
瀬名遠矢は、小松千秋に恋をしたのだ。
しかしそれは些細なキッカケなだけで、遠矢が千秋に愛しさを覚えていったのは、積み重ねられた思い出と、誰にでも平等に振りまかれた千秋の笑顔だった。